​ 半世紀前に起きた連続企業爆破事件で、唯一、逃亡中だった桐島聡(手配写真)が29日朝、入院先の神奈川県内の病院で死亡した。​

 


「最期は本名の『桐島聡』で死にたい」と話す​

 末期がんで路上で気絶していたところを歩行者に発見され、今月半ばに病院に搬送されたが、進行した胃がん末期で手の施しようがなく、死亡した。逃亡中だったため、健康保険証も持っておらず、自費扱いで入院、25日になり、病院側に「自分は桐島聡だ」と話し、「最期は本名の『桐島聡』で死にたい」とも話していたという。

​ 桐島が属していたアナーキスト・グループ「東アジア反日武装戦線」は、無党派の過激派集団で、特定のセクトではない。1974年8月~1975年5月にかけ12件もの連続企業爆破事件を起こし、中でも74年8月30日の三菱重工本社ビル(千代田区丸の内)爆破事件では、通行人を含む8人死亡し、380人もの重軽傷を出した(写真=爆破事件現場)。​

 

 

 

 一連の爆破事件は、当時の社会を震撼させた。


無党派アナーキストグループ​

​ 翌年5月、グループの大道寺将司・あや子夫妻ら主要メンバーが一斉逮捕され、逮捕を免れた桐島はメンバーの宇賀神寿一とともに逃亡し(写真=75年4月、東京・銀座の韓国産業経済研究所入り口ドア付近に爆弾を仕掛けた容疑で指名手配された。この時、死傷者は出ていない)、警視庁から指名手配されていた。宇賀神は、指名手配7年後の1982年に逮捕され、その後、懲役18年の刑が確定、2003年6月に満期出所した。​

 

 

 東アジア反日武装戦線は、大学闘争に行き詰まった無党派過激アナーキストグループが、日本企業のアジア進出に、帝国主義的進出と純粋に憤って連続企業爆破を敢行した。事件の被害者と家族の悲しみと怒りは察するにあまりあるが、あえて弁護すれば彼らは、私利私欲のために活動したわけではない。独善的ではあるが、青年らしい正義感から、である。
 

逮捕に際し、服毒自殺のメンバーも​

 無私の自己犠牲の活動であった。しかし主犯の大道寺らには死刑判決が下り(大道寺将司は死刑確定後に獄死)、妻のあや子は公判中に海外へ逃亡、片岡利明は死刑確定後に在獄中で、黒川芳正も無期懲役刑で服役中だったりと、それぞれ厳刑を宣告された。

 その他に、グループの齋藤和は、75年5月に官憲に逮捕される際に服毒自殺している。

 メンバーは、逮捕後に海外逃亡した大道寺あや子と佐々木規夫を除けば、全員が厳しい刑を受けたが、ただ1人、桐島だけが逮捕を免れ、逃亡中だったのだ。

 その桐島が、痩せ細って末期がんで亡くなった。この間、49年間も逃亡していた。逃亡のツケは、重かった。


家具1つ無い6畳間で​

 その間、死までの数十年間、藤沢市内の土木会社に「内田洋」の偽名で作業員として勤めていた。桐島が自分の本名を名乗った後、宿舎の6畳間に警察が捜索に踏み込むと、部屋には何1つ家具もなく、着替えの入った段ボール箱2つだけが残されていたという。

 胃がんを発症後も、自覚症状はあったはずなのに、健康保険証を持たないために受診した様子がなかった。同僚で82年に逮捕されていた宇賀神は、とうに刑期を終えて社会に復帰している。

 それなのに桐島は、たった1度きりの人生を逃亡生活で終えた。自身が身を置き、頼れるグループは消滅している。おそらく支援者もなく、1日の安息もなかったに違いない。先頃、懲役20年の一審判決の出た中核派の大坂正明の同派の庇護を受けて45年間も逃亡していたが、桐島はそうした庇護も無かった。

 それを思うと、心を許せる友もなく、ずっと貧困と孤独の中で労務者暮らしをしていた桐島が哀れでならない。

 桐島も、1970年代の時代の犠牲者であった気がする。


昨年の今日の日記:「横浜の神奈川県立歴史博物館で会期末近くの『縄文人の環境適応』を観る」