華麗・豪華というほどではないが、これが先史時代アメリカの都市の景観と言うべきだろう。その昔、セントルイスから研究者運転のレンタカーで約30分、行き着いた州立史跡のカホキア墳丘群であった。当時は、まだ登録されていなかったと思うが、世界遺産に登録されている。


​◎高さ30メートル、長径300メートル超のモンクス・マウンド​

​ その中心が、メキシコ以北では北米最大の土盛りマウンド(墳丘)の「モンクス・マウンド」である(写真=空からと正面から見たマウンド)。墳丘高約30メートル、墳丘の長さは316メートル、幅は241メートルもあり、推定で62万立法メートルもの土砂を人力だけで動かし、建造した。​

 

 

 

 紀元900年~950年頃に既に建物が占めていた場所で建設が始まった。蟻の進むように少しずつ建設が行われ、紀元1100年頃にようやく完成した。

​ この頃がカホキアの盛期であり、「都市」は総面積16平方キロという広大な規模に達した。モンクス・マウンドを最大に、120基前後のマウンド群、さらに公共建造物、「ウッドヘンジ」と呼ばれる天文観測所も建設された(想像図)。​

 


​◎最大人口1万5000人か、自然銅も加工​

 人口は、最盛期には1万5000人にも達したと考えられ、考古学者の中には最大限4万人の人口規模を想定する人もいる。もちろんメソアメリカ以北の北米では、最大の「都市」であった。

​ また「34番」マウンドには、北米で唯一、先史人が銅を加工した作業所があったことが分かっている。銅はいわゆる「自然銅」で、純度の高い銅鉱石は五大湖地域からカホキアに運ばれてきていた。それを鍛造して銅塊を加工し、作られた神聖な品々や外交的な贈り物は(写真)、北米各地に送られたと見られる。​

 


​◎石造建築物のなかった「土の文明」​

​ モンクス・マウンドに代表されるカホキアは、ミシシッピ文化期の中頃に営まれた(写真=2基がペアになったマウンド)。​

 

 

 ミシシッピ文化は紀元800年~同1500年頃の北米中部で発展した、トウモロコシ農耕に基礎を置いた文化で、カホキアの営まれて同中期は、ミシシッピ文化の盛期に当たる。

 北米のメソアメリカ文明、南米のアンデス文明のように、ミシシッピ文化には文字も、自然銅以外の金属器もなく、家畜も飼わなかった。他の文明と違うのは、ミシシッピ文化では石造の建築物がなかった(メソアメリカ文明でもマヤ文明だけは、マヤ文字が発明・使用された)。


​◎1350年頃には廃墟に​

 ミシシッピ文化中期を代表するカホキアは、紀元1100年頃をピークに衰退に向かい、最終的には1350年頃には無人の廃墟となった。

 衰退の理由は分かっていない。1175年から1275年の間に(年輪年代法で細かな年代が分かる)、カホキアの住人は「都市」を取り囲むように防御柵を築いた(写真=復元されたもの、防御柵は数回にわたって再建もしている)。おそらく周辺の部族から、カホキアの余剰農産物を狙った襲撃が繰り返されたのだろう。それは、カホキアの衰退に拍車をかけたに違いない。

 

 

 最終的にカホキアが放棄された原因も、はっきりしていない。「都市」を維持していくために周囲の森林を伐採し尽く、それによって土地の保水力が衰え、洪水に襲われて放棄されたという推定が根強かったが、最近の発掘調査で洪水の起こった証拠は見つからなかったとされる。
 

​◎様々な複合要因が終止符か​

 ただ先史時代の農耕大集落は、世界のどこでも必ず衰退し、最後は放棄されている。集約的農耕で地力を衰えさせたのが最大要因だと思われるが、増えすぎた人口圧力に抗せなかった、周辺部族との戦争で疲弊した、干ばつなどの気候変動に耐えられなかった、疫病に襲われた、など様々な要因が考えられる。

 狭い地区に大人口の集まった先史農耕集落は、サニテーション(衛生)に決定的な弱点を持つ。不潔な環境は、衛生害虫やネズミをはびこらせ、伝染病も引き起こす。飲み水は汚染され、作物の収量を減っていく。

 そうした複合要因が、カホキアに終止符を打たせたに違いない。

 なお21年5月19日付日記:「北米最大の規模のマウンド群遺跡『カホキア』、白人到達以前に消滅した謎」も参照されたい。


昨年の今日の日記:「銀河系内を漂流する自由浮遊惑星、レアな存在ではなく意外とありふれていて1000億個という推定も」