幕末の幕臣、勝海舟が、坂本龍馬の進言を入れ、越前福井藩からも多額の資金援助を受けて創設され、後の日本海軍の基礎を築いた幕府の「神戸海軍操練所」の遺構と見られる石積みの防波堤が、年末に見つかった。
 

勝海舟の奔走による開設も1年で閉鎖​

 操練所は、軍艦奉行の勝海舟が14代将軍の徳川家茂の直々の許可を得て、元治元年(1864年)5月に旧神戸村の生田川河口に開設された海軍士官養成機関、海軍工廠である。龍馬はもちろん、後に彼に従う海援隊のメンバーなど、全国から有能な士を集めて開設された。

​ ところがせっかくの海軍操練所も、幕府により1年ほどで閉鎖されてしまう。勝海舟が軍艦奉行を罷免されたうえ、龍馬、近藤長次郎など土佐藩脱藩浪士や紀州藩脱藩浪士、陸奥宗光(写真=紀州藩士時代の陸奥)など、多数の反幕的浪士が集まっていたため、幕府から嫌われたのである(陸奥宗光については、23年9月23日付日記:「初めての新聞小説を楽しむ毎朝:坂本龍馬に私淑し、明治政府の外相で不平等条約改正を成し遂げた陸奥宗光の青春」を参照)。​

 


後の初代連合艦隊司令長官の薩摩の伊東祐亨も​

​ ただ日本海軍の草創期を築こうと全国から集まった若者の中には、その後に日本海軍の担う人材も出ている。薩摩藩から派遣された生徒で、後に初代連合艦隊司令長官を務め、日清戦争の黄海海戦を指揮して優勢だった清国海軍を壊滅させた伊東祐亨(いとう・すけゆき=写真)も海軍操練所から巣立った。​

 

 

 明治初期に「薩の海軍、長の陸軍」と呼ばれるに至る起源は、海軍操練所も1つであった。
 

閉鎖後に幕末最末期に開港された兵庫港に​

 さて、たった1年で廃校となった海軍操練所だが、その跡地に港湾施設が建設され、1868年(慶応3年12月)に開港する兵庫(神戸)港の礎となった。

​ 当時の史料から、現在の同市中央区新港町一帯の約5.7ヘクタールが跡地とされ、同町に記念碑があるが(写真)、これまで所在地の確定につながる遺構は見つかっていなかった。​

 

 

​ 今年6月以降、市がウオーターフロント開発の一環で駐車場だった土地を発掘調査したところ、跡地とされていたエリアの南西端から操練所の一部とみられる石積みの防波堤が見つかった(写真)。​

 


 

幕末に開港された5港のうち開港当時の遺構の発見も初​

 加えて、兵庫港開港期の波止場の防波堤や、明治中期以前の防波堤なども出土した。幕末に開港した5都市(兵庫、函館、横浜、新潟、長崎)で開港当時の遺構が見つかったのは初めてという。

 日本近代史に大きな足跡を残した海軍操練所跡は、保存の上、誰にも観られるように公開してほしい、と願う。


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