時に思う。文字が読み書きできない人たち、つまり文盲の人たちの心象世界は、いったいどのようなものなのだろうか、と。


文盲の祖母、田舎の生地から1度しか離れず

 僕の母方の祖母は、文盲だった。田舎の極貧の母子家庭に育った僕は、少年時代、祖母のいた伯母の家の離れの掘っ立て小屋に住んでいたから、祖母はいつも身近にいた。

 気の優しい、典型的な田舎の「おばあちゃん」だった。ある時、祖母に何か聞こうとして、母から「(おばあちゃんは)字が読めないから」と止められた。

 僕が聞いていた限りでは、祖母は生まれ故郷から1度しか出ていない。東京に女中奉公に出していた3番目の娘が東京で結婚し、その家庭を母に連れられて訪ねたことが1回きりだ。


義務教育だったが学校に行けず​

 文字が読めない祖母にすれば、きっと当時の国鉄の切符すら買うことができなかっただろう。電車に乗れても、駅の表示が読めないから、どこで下車して、どこの路線に乗り換えたらよいかも分からなかったはずだ。母が付いていかなければ、とても遠出はできなかったのだ。

 もちろん祖母の育った時代にはもう義務教育になっていたが、農村では子どもでも子守、農作業の大切な労働力だった。子どもを学校にやらなくとも、うるさく言われなかったのだ。

 それ以来、祖母の育った家庭や生い立ちをよく聞いたことはなかったが、きっと田舎の農家に多かった貧しい子だくさん家庭だったのだろう。

 祖母は、日常、何を考えて過ごしていたのだろうか? それとも何も考えられず、いつも頭の中は白い闇のようであっていたのか? 祖母は僕が小学生の頃に亡くなっているから、そのことを聞けなかったのが残念だ。
 

幕末に近い頃、日本人の半分は読み書きできた​

 祖母の例に反するが、日本では早くから教育が普及していた。

 ちなみに昔から権力者は知識は支配者だけが独占するもの、と考えられてきた。室町時代以前は、庶民はほとんど読み書きを学ぶ機会はなく、それで不自由ではなかった。

 おそらく一般庶民にも教育が普及したのは、社会が安定期に入った江戸時代中期以降ではないか。知識階級である武士浪人が、町と農村で寺子屋を開き、農民や町人に読み書きそろばんを教えた。

 世界に誇る正確な日本地図を作った伊能忠敬も町人出で、うまれは千葉の九十九里に近い田舎の農漁民の子だった。早くから、読み書きそろばんを学んだといわれる。

 幕末に近い頃、国民の半分以上は読み書きができた、とされる。ちなみに和算も盛んで、田舎でも、和算の集まりが開かれ、難問を考えて算額を神社仏閣に奉納するのが流行した(19年6月16日付日記:「現代日本の数学、物理学の基礎を築いた江戸時代の和算の盛行;関孝和、遊歴算家、算額」参照)。


日清・日露両戦争で大国に勝てたのは教育の普及のおかげ​

 こうした土壌と基盤があったから、明治維新後に「富国強兵」を掲げた新政府が教育普及に乗り出すと、どんな田舎でも地元の素封家が中心になって学校を作りを進め、瞬く間に全国に学校教育が普及した。日清・日露両大戦に、大国相手に堂々と勝利したのも、ほとんど文盲だった清国や帝政ロシアの兵士たちと違い、兵卒まで読み書きができたことが大きい。

 教育こそ、国の近代化を進める唯一、最大の手段である。


僕が観たエチオピアの初等教育学校​

 僕が8年近く前、アフリカ、エチオピアに行った時、バスの車窓から、水汲みに行くまだ幼い女児を見た。学校に行っていない子だった。

 首都アジスアベバなど都市部を除けば、圧倒的に人口の多い農村部ではなお半数が未就学児だと聞いた。

​​​ エチオピア北部メケレ(下の写真の上=メケレの街で、学校に行っているのか分からない子たちに囲まれ)からアファールのダロール火山まで行く途中、ティグレ族の村に立ち寄ったら、訪れた学校は電気もない、2部授業の学校だった(下の写真の中央)。子どもの表情から日本なら小学3年生くらいに相当する学齢だろうか(下の写真の下)。でも学校に行ける子はまだいいのかもしれない。​​​

 

 

 

 

 エチオピアは、国民1億2000万人の大国だが、もし半分が文盲だとすれば、商工業に従事できる労働力は実質6000万人となる。もったいないことだ。

 

昨年の今日の日記:「人工頭脳の素子が真空管だった『鉄腕アトム』と激化する最先端2ナノ半導体の開発・量産競争」