​ 北ヨーロッパには、冷涼な気候もあって泥炭が堆積した湿地が広く広がっている(写真)。​

 

 

 正確なところは誰にも分からないが、この湿地に古代人は遺体を放置した(埋葬したかもしれない)。「bog body(湿地遺体)」と呼ばれる。
 

北欧の湿原の「湿地遺体」​

 1640年にドイツのホルシュタイン地方で初めて発見されて以来、まるで生きているかのような北欧の「湿地遺体」は、その謎に魅了されてきた。

 酸素の乏しい泥炭湿地に埋められると、湿地の化学成分が保存料になることもあって、遺体はほとんど腐敗せず、軟部組織がそっくり残った自然ミイラになることが多い。

 発見された湿地遺体の数は、アイルランド、イギリス、ドイツ、オランダ、ポーランド、スカンジナビア、バルト3国から、古いものでは紀元前8000年の中石器時代のものから歴史時代にまで及ぶが、ほとんどは紀元前1000年からの鉄器時代にもので、これまでに2000体を超える。ちなみに今年9月4日付日記:「スウェーデンの泥炭地に遺棄された中世の裕福な男性の殺害遺体、復元されて博物館に展示」も、湿地遺体の一例だ。

 2023年1月10日付けで考古学誌「Antiquity」に発表された論文によると、この数字は控えめで、実際の数ははるかに多いかもしれないという。
 

軟部までそっくり残った「トーロンマン」​

​ 数ある湿地遺体で世界で最も有名な1つが、1950年にデンマーク、シルケボー近郊の泥炭地で発見された男性遺体「トーロンマン」だ(写真)。保存状態が非常に良かったため、発見者たちは殺されて間もない被害者の遺体ではないかと思ったという。​

 

 

 

 トーロンマンが死んだのは、毛髪を放射性炭素年代測定し紀元前400年頃、鉄器時代のものと分かった。

 死亡時の年齢は40歳くらい、身長は当時としても比較的低めの161センチと推定されている。

 死因は、絞殺と見られ、実際、遺体の近くで見つかった革紐は、彼が絞殺されてから湿地に投げ込まれたことを示唆している。

 トーロンマンは、殺人事件の被害者だったとは考えられていない。何らかの儀礼のもとに湿地に生け贄として捧げられたという推定が強い。
 

遺体がねじ曲がった体勢のものも​

 トーロンマンのように、軟部組織がほぼ完全に保存された「湿地ミイラ」の他に、湿地遺体には骨だけが残された「湿地骨格」もある他、部分的にミイラ化した遺体と骨格からなる中間的なものもある。

​ 湿地遺体の中には、遺体が大きくねじ曲がったものもある。湿地に生えるミズゴケは、骨からカルシウムを溶出させ、骨を柔らかくしなやかにする。そこに周囲の泥炭の圧力がかかると、骨が曲がってねじ曲がった湿地遺体が出来る。ドイツ、ヴィンデゼーⅠ遺体(写真)は、その例かもしれない。​

 


 

首を深く切られた痕の「グラウベールマン」​

 1952年に発見されたヴィンデゼーⅠ遺体は、その小柄な体格と繊細な顔立ちから当初は女性と考えられ「ヴィンデビーの少女」と呼ばれた。ところが2000年代半ばにDNA鑑定が行われた結果、ヴィンデゼーⅠは女性ではなく10代の栄養失調の少年だったことが分かった。外傷はなく、紀元前41年から西暦118年にかけて自然死した可能性が高いことも明らかになった。

​ この年は、前々年のトーロンマンと匹敵する保存の良好な湿地遺体が、同じデンマークで発見された。コペンハーゲン北西部のグラウベールの湿地で発見された「グラウベールマン」だ(写真=皮膚が黒くなっているのは発見後に施された防腐処置による)。顎に無精ひげを生やしたグラウベールマンは、紀元前3世紀後半に30代半ばで死亡した。遺体の首には、頸椎骨に達するほどの深さの傷があり、不作の後にケルトの豊穣の女神に捧げられた生け贄だったと考えられている。​

 

 

戦争の犠牲者を大量埋葬した跡も​

​ 大量の湿地遺体が発見された例もある(写真)。デンマークのユトランド半島にあるモスー湖畔のアルケン・エンゲ遺跡からは、これまで約80人分の湿地遺体(「湿地骨格」の例である)が見つかっているが、さらに380人分の遺体が眠っていると推定される。​

 

 

 遺骨のほとんどが若い成人男性のもので、その全員が紀元1世紀初頭に単一の出来事で死亡していた。治癒していない外傷や武器があることから、彼らは戦死した犠牲者らしい。遺骨の多くに動物にかじられた跡があり、意図的に束ねられた遺骨もあることから、遺体は戦闘後1年程度放置され、その後生存者が遺骨を回収しに戻ってきて沼地に埋葬したと考えられている。

 日本には山岳・高原以外、湿地があまりなく、また生け贄風習もなかったようで、湿地遺体はこれまで見つかっていない。

 つまり湿地遺体は、広大な湿原の広がる北ヨーロッパという自然環境で、特異な生け贄風習が行われていた所産なのである。


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