イスラム原理主義テロリスト対イスラエルの戦いは、子ども・女性を含めた無辜の市民も巻き込む凄惨なものになっている。この間、国連安保理は常任理事国の拒否権行使競争で、決議1つ出せない無力さを露呈する。

 安保理の無力さは、常任理事国のロシアが侵略国当事者となっていることで、すでに何度も見せつけられた。

 国際社会が無力なのは、去る9月に一方的にアゼルバイジャンがナゴルノカラバフに攻め込み、たった1日でアルメニア側を降伏させた地域紛争でも見せられた(9月22日付日記:「プーチンの権威の完全失墜を見せつけたナゴルノカラバフでのアゼルバイジャンの完勝」参照)。
 

アルメニア人とアゼリ人の抗争の歴史は古く​

​ 1991年のソ連崩壊以来、激化していたアゼルバイジャンのナゴルノカラバフ紛争は、すでに前記ブログで上げたように、アゼルバイジャンがナゴルノカラバフ自治州の「独立国家」政権を武力で打倒し、自国への完全編入を決めた。これにより、同自治州に長年住んでいたアルメニア系住民10万人以上が住み慣れた地を着の身着のままで離れ、アルメニア共和国に難民となって逃れた(写真)。​

 

 

 

 ナゴルノカラバフを領内に抱えていたアゼルバイジャンは、民族的にはトルコ系イスラム教徒のアゼリ人が多数派国民である。しかしコーカサス地方は、民族の十字路とも言え、多数の民族と宗教の入り混じったモザイク的地域であり、その事情は複雑だ。

 そもそもこの地域のアゼリ人とアルメニア人の抗争の歴史は古く、それなりに根深い。当時、コーカサス地方を支配していた帝政ロシアは、自己の権力を保持するために民族間の軋轢を放置した。
 

アルメニア大虐殺では推計150万人が犠牲に​

 例えば20世紀に入ってすぐの1905年、日露戦争に忙殺される帝政ロシアの現アゼルバイジャン首都バクーで生じたタタール=アルメニア戦争では、両民族は3日間の凄惨な殺し合いを演じた。

 その衝突は、アルメニアのエレヴァンに飛び火、さらに再びバクーに移り、両民族のこの間の衝突で、128のアルメニア人の村落、158のアゼリ人の村楽が破壊され、双方の死者は推定で1万人にも達したといわれる。

​​​ 1914年に第一次世界大戦が始まると、イスラム教でトルコ系アゼリ人を殺した報復として、イスラム教のオスマン・トルコにより、領内のアルメニア人推定150万人がオスマン・トルコに虐殺された。「アルメニア大虐殺」である(写真はアルメニア人の虐殺遺体、はオスマントルコ兵に追い立てられるアルメニア人)。​​
 

 

 

ソ連共産体制下で沈静化するが、それも一時​

 第一次世界大戦の終結間際に帝政ロシアで革命が起こり、後のソ連共産党になるボリシェヴィキによってロシアにソヴィエト政権が誕生した。コーカサス地方も相次いで共産化し、アゼルバイジャンに1920年、アルメニアに1922年、ソヴィエト政権が誕生し、やがて両国はソヴィエト社会主義共和国連邦に加盟する。

 実はこの時、ボリシェヴィキの中でも、ナゴルノカラバフの地位が問題になった。ただこの地域にアルメニア人が多数であることもあり、スターリンはイギリスなどの歓心をかうため、アゼルバイジャンへの帰属を決めた。

 これによりナゴルノカラバフをめぐる民族問題のタネが撒かれたことになる。

 スターリン体制とそれ以後の共産党政権下で民族運動は激しく弾圧されたので、ソ連が盤石だった時は、さほど紛争は起きなかった。しかしソ連が崩壊し、各構成共和国が一斉に独立した後、たがが外れたように古傷が思い出され、流血の紛争となるのである。
 

戦争の隙につけこんで​

 前述のようにナゴルノカラバフからほぼアルメニア人が一掃されたが、これで問題が終わったわけではない。9月のアゼルバイジャンの一方的勝利で、アゼルバイジャン側に高揚感が、アルメニア側に敗北感が漂った。そもそも9月のナゴルノカラバフ戦争は、地域の盟主であるプーチンのロシアがウクライナ侵略戦争の劣勢で睨みが効かなくなったことによって起こった。アゼルバイジャンにとって、欧米もロシアもウクライナで手いっぱいで、しかも国連も機能不全に陥っているこの時、「失地回復」の絶好の機会だった。

 しかもこの上に、さらにイスラエル対ハマスの中東紛争が起こった。

 アゼルバイジャンにとって、軍事的に圧倒的な優位をほこる状況で、アルメニアに攻め込む抑止は全く無い。アルメニアの背後には地域大国で、同民族・同宗教(イスラム教)のトルコが控えている。一方、アルメニアが頼れるのは、同じキリスト教国のアメリカなど欧米諸国だが、ウクライナと中東の紛争を抱え、とても支援できる状況にない。

 今、アルメニアとの国境で、アゼルバイジャン軍がいつ攻め込んでもおかしくない緊張感が漂っている。


昨年の今日の日記:「モスクワ市職員の3分の1が逃亡、市職員のデタラメ徴兵後2週間後にウクライナで戦死が伝わり」