人はなぜ命を的に、未知の地を目指すのか? しかも、先がどうなっているかも分からない水平線の向こうに、地図も六分儀もない、帆付きのアウトリガー船で漕ぎ出そうとは。


太平洋を行く手も定まらず漕ぎ出したポリネシア先史人​

​ 10月15日付日記「広大な太平洋を縦横に舟で駆け抜けたポリネシア人は南米にも到達していたで、ポリネシアから南米大陸への外洋航海した先史時代人の話を書いた。太平洋を縦横に帆付きアウトリガー船で駆け巡った先史人のフロンティア精神にただ感嘆するばかりだ(=18世紀に描かれたアウトリガー船を操るぼりネシア人)。​

 

 

 繰り返すが彼らは現代の我々のように、この海を進めば水平線の向こうに陸があると分かっていたわけではない。祖先を含めて1度も行ったことのない、存在するかどうかも分からない島を目指し、海図も六分儀もコンパスもない状態で、船にわずかばかりの食料と水を積んで生まれ育った島を出港した。
 

ポリネシアの植民へ​

 新しい発見地で植民すべく、数組の男女と子どもが乗っていただろう。言い伝えで、昔、同じように船出した祖先は戻らなかったということは知っていたはずだ。難破したか、漂流の末に食料が尽きて餓死したか、それとも首尾良く新天地で定住できたから、誰も分からない。

​ それでも、船で漕ぎ出し、ポリネシアの島々を征服していったのだ(地図=2011年当時のものだったので、最近では年代は改訂されているし、南米への植民も「?」になっている)。​
 

 

8300キロのインド洋を渡る​

 僕は、南米への航海の他に、先史ポリネシア人の壮挙を、もう2つ挙げたい。

 まず挙げるべきは、紀元前後の2000年前頃、ボルネオ島からマダガスカル島へ行われた植民だ(これは遺伝的に証明されている)。

​ 2つの島の間の距離は、8300キロもある(地図)。それなのに、ボルネオ島のマレー・ポリネシア語派を話す先住民は、マダガスカル島に移住した。マダガスカル島とアフリカ東岸とはたった400キロしか離れていないのに、それまでアフリカ先史人はマダガスカル島に植民していなかったのだ(いたかもしれないが、考古学的にその証拠はない)。​
 

 

途中、補給もなくインド洋へ​

 ボルネオ島とマダガスカル島の間にほとんど島はない。クリスマス島やココス島、モーリシャス島、レユニオン島はあるが、当時はいずれも無人島だった。ボルネオのマレー・ポリネシア語派の人々はおそらく補給も無く、一気にマダガスカル島に進んだと見られる。もっとも故郷のボルネオを出てすぐの、途中のジャワ島やスマトラ島で食料と水を補給すれば、途中の海路は6000キロに縮まる。

 それでも、気の遠くなるほどの距離だ。前述のように、彼らにはマダガスカル島の存在の知識は無かったはずだ。
 

マダガスカル島への植民はアフリカ中部の人口移動に影響​

 ただ、インド洋を東から西に進むには、常に貿易風が追い風となる航海なので、当時の東南アジア島嶼部のマレー・ポリネシア語派話者の技術レベルならば十分に可能だったと思われる。

​ なおインド洋の貿易風は、明代15世紀の鄭和(写真=スマトラ島の三保洞寺にある鄭和像)が数次の航海でも利用し、第5次航海では アフリカ東岸のマリンディまで到達している。ただ明代には、航海術も発達していたし、アフリカ東岸の知識もかなりあった。​

 

 

 このマダガスカル島への植民は、実は後のアフリカ史をも大きく変えるインパクトをもたらした。2000年前頃のボルネオ島からの航海者・植民者は、長期の航海に備えてタロイモ、ダイジョ(ヤムイモの一種:写真)、バナナ、サトウキビ、ニワトリを食料として載せていただろう。それは、100年~300年の間に東アフリカにももたらされた。この時、アフリカ中部にバントゥー亜族個体群が西アフリカから到来していた。

 


 

バントゥー族の南アフリカへの大移住を促す​

​ 彼らは鉄冶金術を持ち、ウシ、ヒツジ、ヤギを飼っていたが、ここに新しい食料源を得て、一気に南に移住の歩みを進め、ついに現在の南アフリカにまで達した(写真=バントゥー亜族の1部族である南ア・ズールー族の踊り)。​

 

 

 その過程で、先住の狩猟採集民であったコイサン族は、辺境に追いやられた。

 南アフリカにオランダの、後にはイギリスの植民者が現れるまで、南部アフリカはバントゥー族の支配地となったのである。

(この項、続く)


昨年の今日の日記:「100万年前を越える最古のDNAを探して(前編):永久凍土に埋まった化石でないと無理」