​ 図書館で小説家・帚木蓬生の連作小説『花散る里の病棟(新潮社)』(写真)を借りて読んだ。​

 

 

 その中の章「胎を堕ろす 二〇〇七」は、敗戦直後の福岡市近郊に設けられた秘密堕胎施設の業務に携わったことのある元日赤看護婦の石崎さんという80歳を超す高齢女性の話だ。
 

戦中に植民地朝鮮で看護学校に通った女性のストーリー​

 石崎さんという女性は、診療所を開く野北という主人公医師の5~6年来の患者だ。4週に1度訪れる、高血圧以外はどこが悪いという患者でもない。だから野北医師は、降圧剤を処方する以外は、石崎さんの四方山話に耳を傾けるのが診療実態だった。

 そのうちうち解けて、石崎さんは青春時代の自分史を語るようになる。早くから両親を亡くしたので、植民地時代の朝鮮に住んでいた養父母に育てられ、京城(ソウル)の日赤付属看護学校に進学し、従軍看護婦を目指すことになる。

 しかし石崎さんが3年の夏に日本は無条件降伏し、京城の日赤付属看護学校を繰り上げ卒業する。しばらくはソウルに身を潜め、冬になる前に帰国、継母の引き揚げていた唐津に身を寄せるが、京城日赤の関係者から召集がかかり、F町という近郊の温泉地の「保養所」に派遣される。
 

帰国した「石崎さん」が目にした女性の受難​

 この保養所に、最初は性別も分からないほど、薄汚れた女性たちがトラックで運ばれてきて、石崎さんは自分たちの仕事が分かった。引き揚げ中に暴行され、妊娠した不幸な女性たちの堕胎を行うのが、その「保養所」の仕事で、元日赤の医師が施術し、石崎さんたちは看護婦として手術を補助した。

 女性たちは、命からがら引き揚げてきた祖国で、胎児という重荷を下ろし、そこから再出発するための出口ゲートにやって来た。手術を終え、しばらく滞在し、回復すると、物も言わず、看護婦たちに礼も言わずにひっそりと退去していく。

 後で分かるのだが、石崎さんの働いていた施設の他に、福岡市内など2カ所の国立療養所がそのための施設として開かれ、九州大の産婦人科の医師が派遣・出張していた。
 

今のウクライナに通じるソ連赤軍兵士の残虐さ​

 当時は、現在と違い、堕胎罪は犯罪で、暴行されて妊娠させられても被害女性は中絶できなかった。石崎さんたちが堕胎に携わっていた2年後の1948(昭和23)年に、妊娠中絶は合法化される。

 筆者の帚木蓬生は、私家版を含めた多数の資料に当たり、石崎という老元看護婦の口を借りて、フィクションという形で戦争の闇の一部に光を当てた。

 ちなみに引き揚げ船が寄港した博多では、引き揚げ途中の暴行された女性たちの中絶手術が行われていたことは、他の本でも読んだことがある。

 こうした施設は、福岡と佐賀県他にもあった。九州大の医師が厚生省の指示で交代で出張し、堕胎に当たったという。

 身を守る手段さえ無い弱い立場の日本人女性を暴行したのは、トップが満州・南樺太などに侵攻してきたソ連赤軍兵であった。次に、長年日本人に虐げられたと思っていた在地の中国人・朝鮮人だろう。他に浮浪の徒と化した敗残日本兵による暴行もあっただろう。

 ソ連赤軍兵士の残虐さは、今もウクライナで振るわれている。
 

敗戦直後のドイツはもっと惨かった​

​ ただ、本書を含めて他の著述でも断片的に語られた日本人女性の受難は、同じ敗戦国だったドイツに比べれば、マシだったかもしれない(写真=敗戦直後のベルリン)。

 


 ベルリンなどに侵攻してきたスターリンのソ連赤軍は、野に解き放たれたさかりのついた猛獣のように、手当たり次第に、老人も幼女も含めてドイツ人女性を暴行した。​

 ある調査によれば、当時ベルリンには140万人の女性がいたが、そのうちの11万人もがソ連赤軍兵士に暴行された。

 その結果は、翌年1946年の出生調査にはっきりと表れた。保存されたカルテには両親の記載もあるが、それによると出生数の3.7%が父親はソ連人となっていた。しかも、妊娠理由として「強姦」という表現まで付記されていた。
 

日本本土のソ連進駐を拒んだアメリカのトルーマン大統領に感謝​

 僕は、敗戦の最中に受難した外地から帰国した日本人女性の過酷な運命には強い心の痛みを覚えるものだが、ソ連赤軍が日本本土に進駐してことなかった幸運をこそ喜びとしたい。

 戦後ゼロ年のベルリンなどでドイツ人女性が被った受難は、日本人女性のそれよりはるかに過酷だったのだ。

 アメリカのトルーマン大統領が、北海道北半部への進駐を求めたスターリンの要望を断固として拒否したことは、日本人として深く感謝する次第である。他にも、現在の朝鮮半島のように、北にならず者国家が居座る不安を感じずに済んでいることも、である。


昨年の今日の日記:「札幌周遊記2022②:樺太周遊を思い出させる展示品=ピウスツキの蝋管、日露国境標石など」