雨は降り止まなかったが、函館駅に戻った。
 

風の強い函館、繰り返し大火に見舞われた過去​

 最終日の4月26日だけは雨だったが、他3日間はおおむね晴天に恵まれた。

 恵山や函館山では特に感じたが、海に面しているせいか、函館は風が強い。

 そのためだろうか、函館には大火が多かった。明治から昭和戦前期にかけて、少なくとも25件の大火に見舞われているという。

 特に明治40(1907)年8月25日の大火の規模は大きく、8977戸が焼けている。せっかく流れてきた函館で職を得た石川啄木も被災し、半年余で札幌に去っている。

 これまで本稿で紹介した遺愛幼稚園、函館区公会堂、ハリストス正教会聖堂、カトリック元町教会などもみんな類焼している。

​ 耐火建築だった金森赤レンガ倉庫(写真)や太刀川家は類焼を免れている。​

 


 

戦前には珍しい地方都市の都市計画​

​ その後も函館史上最悪の、1万戸以上が焼けた昭和9(1934)年3月の大火があった(=昭和9年函館大火の焼失地、左隅の住吉町から出火し、北・東方面へ火が広がった)。この時の大火は、図のように市の南部に収まったので、明治40年大火後に再建された遺愛幼稚園、函館区公会堂、ハリストス正教会聖堂、カトリック元町教会などは被災を免れた。​

 

 

​ その大火の跡は、あちこちに見られる。十字街から新川町にかけて、あちこちに記念碑や記念像の建てられたグリーンベルトが見られたが(写真=高田屋嘉兵衛像と日露友好の碑の建つ護国神社坂のグリーンベルト)、これらは昭和9年大火後の復興事業によって形成されたもので、これは戦前の地方都市の都市計画が実施された数少ない事例とされる。​

 


 

 

住むならちょっと不便かも​

 僕は今回、行かなかったが、函館には有名な湯の川温泉もある。景観も、海産物も素晴らしい。しかし坂の多いのは、住む人には難渋だろう。冬は道が凍結したら、転倒しやすい(その防止のためか歩道にはコンクリート製の石畳が敷かれている)。

 住みたいかと問われれば、首をかしげたくなる。
 

新函館北斗の北の先の札幌へは?​

 簡単な昼食を済ませて、チェックアウト後に荷物を預けた新函館北斗駅前のホテルに戻った。

​ そこで駅に向かい、13時32分発の「はやぶさ32号」に乗った(写真)。この列車は、来た時の「はやぶさ7号」と違い、途中停車駅が多く、東京まで4時間25分もかかる。​

 

 

 やはりこれくらい長時間乗るとなると、どうしても退屈感が出てくる。

 北海道新幹線はいずれ札幌まで延伸されるが、これは最速の列車でも5時間を切るべく努めているらしい。それにしても函館から札幌までノンストップとしても限りなく5時間に近い4時間後半は避けられない。利用者はいるのだろうか、と危ぶんでしまう。

(完=32回にわたった函館の旅は今回で終わります。ご愛読、ありがとうございました)


昨年の今日の日記:「札幌周遊記2022①:まず緑したたる北海道大学キャンパス内の博物館へ」