​ 山本幡男ら満鉄勤務者、関東軍高級将校、満州国官吏、司法関係者など(ほぼ全員が、旧制大学・旧制高専卒、陸士卒など高学歴者)は、戦犯とされ、ソ連国内法である刑法第58条を適用され、「反ソ活動」のため懲役25年の長期刑を宣告された(写真=シベリア抑留でラーゲリに11年間も収容された全4巻本の著者、前野茂氏も満州国高官だった)。​
 

 

1回きりのいい加減な裁判で懲役25年宣告​

 この刑法58条は、規定が包括的・曖昧で、ソ連国内の政治犯はこれが適用され、大量にソ連各地の収容所列島に送られていた。民主主義国の法体系では信じ難いが、ソ連刑法58条は国外にも適用されたのだ。ソ連国外にいた日本人抑留者にも適用され、前記の人たちは抑留中に身分が暴かれると、58条違反で長期刑を宣告された。それがソビエト法であり、その伝統はスターリニスト中国にも受け継がれ、したがって香港国家安全維持法は、国外の、つまり我々日本人にも適用されることになる。

 こうしたわけで極端に言えば、日本や満州国の官吏や警官は、抑留されたら全員、「反ソ活動」で訴追されたのだ。

 その裁判もいい加減で、裁判官は居眠りしていたり、女性裁判官が公判中に子どもに授乳したりしていたという。そして1回きりの裁判で、有罪、懲役25年が言い渡されるのだ。むろん、控訴の権利はない。
 

満州国外務省では職員の3分の2以上が死亡・行方不明​

 山本らは、懲役25年組だったので、最後の最後、1956年12月末まで抑留され続けたのである(前記の前野茂氏は、最後の帰還船より4カ月前の56年8月帰還だった)。もっとも山本幡男自身は、前述のようにその2年以上前に収容所で亡くなり、「白樺の肥やし」になるのだが。

 なお、『収容所から来た遺書』によると、満州国外交部(外務省)では、ほぼ根こそぎソ連に抑留され、429人の職員のうち実に95名もが「白樺の肥やし」になり、大半が死亡と推定される行方不明者も228人を出している。これから差し引くと、100人ちょっとしか祖国日本の土を踏めなかったことになる(ちなみに前記前野氏は満州国文教部次長=現代日本で言えば文科省次官だった)。
 

衰弱した山本に癌​

​ 衰弱した山本幡男の病状に、大きな変化が起きた。首に大きな腫瘤が出来、出血もするようになった(写真=やせ衰えた山本)。​

 

 

 収容者仲間が営倉送りの危険を冒しながらも大病院での診察を当局に願い出たが、何度も却下された。

 それでもいよいよ、と病院に送られると、山本は翌日には収容所に戻されてきた。

 「喉頭癌性肉腫」という癌で、しかも末期で手の施しようがない、という診断だった。
 

「北溟子を救え」とわずかな作業賃金から70数名がカンパ寄せる​

​ 仲間たちは、夜、労役から帰ると、交代で疲労した体にむちうち、痛みに苦しむ山本をさすったり、膿の溜まった包帯の交換をしたりの看病をした(=労役に出る前の整列と伐採した巨木の搬出労働)。​

 

 

 

 またこの頃には、わずかでも作業には賃金が出るようになり、それで収容所内売店でタバコや食料品が買えるようになった。

 そうした中で、「北溟子(山本の俳号)を救え」、という声が収容所内で澎湃として起こった。

 収容者たちはわずかな作業賃金を持ち寄った。70数名がカンパに応じた。

(この項、続く)
 

▽これまでの日記​

・11月24日付日記:「『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』を読む、山本幡男とシベリア抑留③:劣悪な食物などで犠牲者が続出」

・11月22日付日記:「『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』を読む、山本幡男とシベリア抑留②:学生時代はマルクスボーイ、満鉄調査部時代に応召」

・11月20日付日記:「『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』を読む、山本幡男とシベリア抑留①:スターリン獄で句会主宰し、収容所仲間から広く慕われた山本」


昨年の今日の日記:「エチオピア紀行(160):いよいよダロール火山、硫黄を伴う熱水の噴き出す火口を観る」