​​ 自宅近くの図書館でたまたま手にした文庫本『人魚の眠る家』(下の写真の上:東野圭吾作)を読み終えた。数年前に出た本で、いまさらの感もあるが、読み終えて久しぶりに感動した。猛暑の日中、緑陰の中で涼風に汗を拭われた後のような爽やかさ、であった。僕は観ていないが、映画化もされたようだ(下の写真の下)。​​

 

 

上質な大人のメルヘン​

 東野作品の中には、読んだ後に心にザラザラ感が残るものもたまにあるが、これは読後感が爽やかで、言うならば上質な大人のメルヘン、なのしれない。

 登場人物に悪人はいない。したがって殺人も傷害事件もない。誠実に患者と家族に向き合う脳神経科医や技術開発にひたむきに取り組む青年技術者、浮気がバレて妻とは離婚寸前になったが、事故で脳死状態になった娘と共に無私の思いで経済的・精神的に支える主人公実業家などだ。妻も一時は、精神科医によろめくが踏み留まり、娘の介護に全力で取り組む。

 テーマは重い。一時期、日本中の話題となった「脳死と人の死」が主題と言える。

 

自宅で機会の助けを借りて娘を介護​

 ほとんど脳死状態ながら、6歳の娘、瑞穂の脳死判定を拒否し、娘の死を認めたくない母、薫子は、まず病院で、次いで習熟すると自宅に娘を引き取って独りで介護する。瑞穂は、呼びかけなど外からの働きかけに全く反応しないが、自宅では青年技術者、星野祐也の開発した医用電子工学機器とプログラムでともかく最低限の代謝は維持する。身長や髪も伸びるし、摂食と排泄も正常だ。

 読者は、薫子と彼女に密かに憧れる青年技術者の祐也の情熱と努力が、やがて瑞穂の覚醒に至るのではないか、という期待感をもって読み進めることになる。

 ある時、自宅に来る訪問教師、新章房子の持っていたチラシから、アメリカでの心臓移植を求めて募金活動をしている団体を知り、身元を隠して街頭募金にも立つ。

 

日本の心臓移植の困難さと「脳死」問題​

 そこで、日本の置かれた小児への臓器移植の困難さを体験する。心臓移植の場合、日本にはドナーがいないので、アメリカに心臓移植に行くしかないが、家族は支援者の助けでそのための巨額費用を募金で集める活動に挺身する。

 なぜ、アメリカに頼らざる得ないか、しかも費用が超高額になるかは、武漢肺炎パンデミックで露呈されたような政府と役人の責任を取りたくないという無責任さの故であることも、薫子は理解する。

 

一人の少年の淡い慕情​

 ネタバレになるが、プロローグで、一人の少年、宗吾が豪壮な邸宅でかわいらしい「眠れる少女」を見かけるたことで物語は始まる。この少年は、あまりにもかわいらしかった少女に淡い慕情を抱き、2度目に会った時、車いすに乗せられて散歩していて帰った少女が、「起きない」ことを付き添っていた母親から知らされる。

 その後に始まるストーリーの中で、この少年は、もう全く出てこない。

 思いがけなく再登場するのは、終章エピローグで、なのだ。

 そこに至る物語の終わり近くで、おそらく誰も真似できないほどの妻の娘への3年余の手篤い介護が終結を迎える。

 

母の枕辺で別れの言葉​

​ 3月31日未明、ふと目を覚ました薫子のそばに、今まで目を開いたこともない寝たきりの娘、瑞穂が立っていることに気づく(写真)。​

 

 

 むろん幻覚なのだが、枕辺に立った少女は、長い間の母親の延命介護に礼を言いに来たのだった。

 「ママ、ありがとう。

 今までありがとう。

 しあわせだったよ。

 とっても幸せだった。

 ありがとう。本当にありがとう。」

 そう言って、娘は旅立った。

 瑞穂の体を常にモニタリングしている機器の数値を確認し、本当に心臓の止まる日の来たことを薫子は理解した。

 

娘の臓器の提供申し入れ​

 そして彼女は、決意する。その日、娘が運ばれた主治医のいる病院で、最初に世話になった脳神経科医の進藤に娘の脳死判定を受け入れ、臓器を移植用に提供することを同意するのだった。

 娘の心臓が移植されたのは、プロローグに出てきた、彼女にほのかな慕情を抱いたあの少年、宗吾だった。

 移植手術とその後のリハビリなどで、彼女を見た邸宅の前を通るのは、2年余ぶりだった。もう1度、あの少女と会いたいと思ったが、その邸宅は取り壊されていて、もうなかった。しかし宗吾は知らなかったが、あの少女は彼の体の中に生きていたのだ。確かな鼓動を打つ瑞穂の心臓が。

 それが、本編のシメだった。そうしたシメを用意したのは、いかにもストーリーテラーの東野圭吾らしい。そしてほのぼのとした感覚が後に残った。

 

子どもを持った親なら分かる​

 読了後に、読んだ人によっては、3年余も献身的に介護した薫子を異常と感じた人もいたかもしれない。その献身ぶりは、義父や義弟にも理解されなかったのだ。自分のエゴのためにやっているのだ、と。

 しかし子どもを持った親なら、分かる。

 少しでも、奇蹟であったとしても、「人魚」のように眠り続けた子が、いつの日か目を開け、立ち上がって「ママ」と言ってくれる日を待つ心情を。

 僕が深く感動したのは、幼い子を持つ母親の愛情の深さだった。その深さを、作者は見事に描きあげたのだ。


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