​ 僕の好きな画家の1人に、マルク・シャガールがいる(写真=33歳のロシア在住時)。​

 

 

​ 特に好きなのが、恋人共に空を飛ぶ「町の上で」(写真)。この絵は、以前、箱根のポーラ美術館で見たことがある。多くの画家の絵がそうであるように、僕の観た絵は、写真の「町の上で」と微妙な違いがある。しかしすべて同一モチーフの絵である。​

 


 

ロシアのユダヤ人、ポグロムによる迫害​

 僕の深読みだが、これにこそシャガールの鬱屈した青春時代が投影されているように思われる。

​ なぜならシャガールは、現在はベラルーシの当時帝政ロシア領であったヴィテブスク生まれのユダヤ人だったからだ(写真=ヴィテブスクのウスペンスキー大聖堂)。​

 

 

 帝政ロシアは、「諸民族の牢獄」とも呼ばれるほど、多数派民族のロシア人の下に、多くの少数民族が従属させられていた。その中でも、ユダヤ人の地位は低かった。

 なまじ商業にたけていて、金を儲ける者たちもいたから、貧しい主要民族のロシア人はもとより、多数の少数民族からも嫉まれ、ことあるごとに集団的に襲われた。

 「ポグロム」と言うが、権力者も貧しい庶民の不満のはけ口、矛先に、反ユダヤ感情をたきつけ、ユダヤ人を集団で襲わせ、迫害した。
 

城柵で囲まれたゲットーで暮らす​

 ポグロムは、今で言うジェノサイドに他ならないが、その集団的襲撃に備えるために、そして権力者にとっては統治しやすいように、ユダヤ人集落の周りには、城柵、城壁が設けられた。

 「町の上で」には、その木柵を恋人と共に脱出していくかのように飛ぶシャガール自身が描かれている。それは、逼塞した自らの環境から、迫害の無いどこか自由な国に飛んで行きたいという心からの希求だったのだろう。

​ なお「町の上で」の城柵は木柵で、ロシアはこれが多かったらしい。2014年夏にポーランドに行った時、古都クラクフの旧ユダヤ人ゲットーのカジミエシュで、今も残る石壁を見たことがある(写真)。

 


戦争で翻弄された前半生​

 シャガールは、1987年の7月7日生まれだが、彼がやっと「諸民族の牢獄」のロシアから脱出したのは、1910年、23歳の時である。パリで5年間暮らすが、第1次世界大戦の重い社会状況から抜け出すためなのか、1915年にロシアに戻る。しかし祖国もまた、対ドイツの大戦中だった。

 再びパリに脱出するが、ここも安住の土地ではなく、ナチ・ドイツのパリ占領が迫ると、アメリカに亡命。

 そして第二次大戦後にパリに戻り、最終的にフランスに落ち着くことを決めてフランス国籍も取得している。
 

アウシュヴィッツのガス室に消えた子どもたちも​

 シャガールは、才能に恵まれた芸術家だったから、世界を転々としながらも生き長らえることができた。

 多くの名も無きユダヤ人は、最悪の場合、アウシュヴィッツなどのガス室に消えている。僕は、7年前の7月、ポーランドのアウシュヴィッツ収容所跡(写真)と博物館を観て、幼い子どもたちもここで殺されたことに涙ぐんだ。

 

 

 殺された子どもたちの中には、将来、シャガールのような優れた画家になる者も、アインシュタインのような世界的物理学者になる者も出ただろう。

​ そうした古い記憶があるから、第二次大戦後にパレスチナに建国されたイスラエル(写真=エルサレム。オリーブ山から観た神殿の丘)は周りのアラブ世界の中で突出して強いのである。​

 


 

昨年の今日の日記:「長崎・五島、世界遺産の旅①:海辺に建つ構成資産の小教会を船でめぐる」