子どもの頃に観た、題名も出演者もろくに覚えていない映画が、妙に印象に残っている。

 時代は戦後間もなくだったと思う。闇屋で生計を立てていた貧しい夫婦がいて、その夫が警察の刈り込みか何かで(この記憶も曖昧だ)死んだ。後に、若い妻と幼い男児が残された。
 

「あの世」から現世に戻って妻子の無事を確認​

 あの世に行った夫は、そこで神様か誰かに、1つだけ善行をしていたので、数時間だけ元の世に戻してやってもいい、と言われた。芥川龍之介の『蜘蛛の糸』の翻案である。もちろん観た当時は、そんなこと知りもしなかったが。

 夫は、確実にあの世に戻ってくるように、2人の監視人付きで元の世に戻った。そこで、ある程度、成長した我が子を見る。戦後の東京のどこにでも広がっていた空き地で遊んでいた。その子に話しかけ、とりとめない話などをしながら、お母さん、つまり死に別れた妻の消息もつかみ、自分の死後に何とか暮らしを立てていることを知って安心する。

 時間が来た。夫は、監視人とあの世に戻らなければならない。子どもは、自分の記憶にない父親から、何だったか形見をもらう。お母さんと元気でな、と言われて、別れた。

 そこに妻が帰ってきた。妻は、子どもがもらった形見を見て、もしや夫が、と驚いて子どもと後を追う。しかし、夫は2人の監視人に付き添われて、雑踏の向こうに消えようとしていた。一瞬だけ夫は振り返り、妻に手を振る……。
 

ギリシャ神話の黄泉の国に妻エウリュディケを連れ戻しに行くオルフェウス​

 子どもの頃だから、映画の背景など、よく分からなかったけれども、なぜかその映画の一部だけが切り取られた記憶に鮮明に残っている。

 年がたち、ある程度の年齢に成り、死に別れた身内と、一瞬でもいいから会いたい、と思うことがある。その時に、子どもの頃に観たこの映画を思い出す。むろん、そんなことは不可能である。

 くだんの映画は、あの世から死者が現世に会いに来るという設定で逆だったが、死者とまた会いたい、という願いは、普遍のものだったようだ。

 ギリシャ神話のオルフェウスが黄泉の世界に亡き妻エウリュディケを救出に行く物語もまた、胸を打つ。
 

禁令を破り振り返ったのが妻との永遠の別れ​

 アポロの息子で音楽の名手のオルフェウスは、最愛の妻、エウリュディケを毒蛇に噛まれて失う。茫然自失のオルフェウスは、亡くなった妻を求めて放浪の旅に出る。

 そして何としても妻を取り戻そうと、黄泉の国に足を踏み入れる。

 竪琴を奏でつつ悲しみを歌うと、黄泉の国のあらゆる者が落涙し、王のハデスさえ心を動かされ、妻エウリュディケを連れ戻してよいと許可する。「ただし」と1つだけ条件を付けた。妻を連れ出す途中で、決して後ろを振り返らないように、と。

 同意したオルフェウスは、エウリュディケの手を引いて、黄泉の国から連れ出そうとする。もう少しで脱出できるという時、ふとオルフェウスは、今、握っている手が本当にエウリュディケのものなのか疑念にかられる。確かめたいという誘惑に抗しきれず、ついにオルフェウスは禁を破って後ろのエウリュディケを振り返ってしまう。

 それが、エウリュディケとの永遠の別れ、となった。
 

心を捕らえる名画「エウリュディケの救出」​

 後悔と悲しみのあまり、オルフェウスは死ぬ。それを不憫に思った全知全能の神ゼウスは、オルフェウスの愛用した竪琴を拾い上げ、天空に飾った。それが、「こと座」という。

 オルフェウスによるエウリュディケの救出の悲話は、後の世の人たちの心を捕らえてやまない。それだけ黄泉の国に行った死者と再会は難しく、見果てぬ夢だという諦観と共に。

​ 19世紀のバルビゾン派の画家カミーユ・コローは、そうした「エウリュディケの救出」を油絵に描いた(写真)。竪琴を左手に掲げ、右手でエウリュディケと手をつなぎ、黄泉の国から連れ出そうとしているオルフェウスの姿――僕の心を捕らえる名画の1枚である。

 


 

昨年の今日の日記:「トランプ大統領、武漢肺炎で入院、11月の大統領選の行方は?」​