昨年6月末、香港に国家安全維持法が施行され、民主主義が死んだ。香港にも本土並みのスターリン主義化が進み、多くの民主派が獄中につながれ、今年も6.4市民革命(天安門事件)の犠牲者の追悼集会すら開けなかった。開こうとして民主派生き残りの女性が逮捕された。
 

法ではなく独裁者が統治・支配した体制​
 現代中国と北朝鮮の思想であるスターリン主義がいかに人道と人権に無縁な暴力的なものかは、13年10月27日付日記:「日曜の思索のひとときに:『スターリン主義』とは何か;ジャンル=現代史」を参照していただきたいが、以下に述べるのは、スターリン主義の祖国であったかつてのソ連で、ロシア革命に青春を捧げ、共産主義の実現に全力を投じた1人の共産党員女性の悲劇である。
 ちなみにこの女性のような悲劇は、スターリン支配のソ連では、とりたてて特異なものではなく、ごくざらにあった事例である。
 民主国家なら当たり前の法的原則に、「一事不再理」がある。いったん有罪で刑に服したら、同じ罪でまた収監されることはないという原則だ。
 ところが独裁国、特にスターリン主義国家では、それが曖昧だ。それどころかスターリン時代のソ連では、「一事不再理」は全く顧みられなかった。
 あらためてその事実を、最近読んだ本で確認した。
 

​​​​スターリンによるグレート・テロル=大粛清​
 スターリンによる政敵を含めた「単に気に入らない」共産党・政府幹部の逮捕・流刑・処刑の大きな波は、最初は1936年~1938年に訪れた。いわゆる「グレート・テロル」=大粛清である。
 この大粛清で、かつての共産党政治局員を含む最高幹部が、3次にわたる見世物裁判=モスクワ裁判で処刑されたりした(写真)。

 


 このモスクワ裁判は、スターリンの最大の政敵だったトロツキー派旧幹部カール・ラデックらの他(下の写真の上=告発されるラデック=右)、一時はスターリンと同盟してトロツキーを抑え込んだジノーヴィエフ、カーメネフら合同反対派幹部(下の写真の中央=トロツキー派追放のために一時的に同盟を組んでいたボリシェヴィキ幹部、左からスターリン、右派ルイコフ、左派カーメネフ、左派ジノーヴィエフ、1925年1月)、さらには合同反対派を失脚させるために同盟したブハーリン(下の写真の下)、ルイコフらの右派らを血祭りに上げた。​​​​

 

 

 


 

控訴・弁護人無しの秘密警察の特別会議で大量の流刑​
 ただ、それはまだ見世物とはいえ、一部公開されただけマシだった。秘密警察・内務人民委員部(НКВД)の特別会議(OSO)によるただ1回の審理で有罪・死刑宣告を受けた党・政府・赤軍幹部はもっと多数いた。
 この審理は、むろん弁護人も付けられず、控訴もできなかった。あらかじめ決められた「判決」が言い渡されるだけだった。
 この大粛清は、ナチ・ドイツのソ連侵入という不意打ちで、ソ連国内奥深くまでドイツ軍に侵入された戦争(ソビエト側は「大祖国戦争」と呼んだ)でいったんは沈静化する。国内で、反対派狩りをする余裕は無く、ともかくも挙国一致でナチ・ドイツと戦うためだった。大粛清の波に押し流され、シベリア流刑されていた政治犯らの中には、志願してソ連赤軍に投じる者もいたが、多くはそれすらかなえられなかった。
 

1度つとめあげた刑期を終えた政治囚にさらに無期流刑の残酷​
 戦争がスターリン・ソ連の勝利に終わった1948年10月26日、いまだ文明国で類を見ない命令が出た。
 秘密警察の国家保安省と検察庁の共同指令によるもので、驚くべきことにかつてスパイ行為、破壊活動で逮捕されてラーゲリ(強制収容所)に流刑された旧反対派・白衛派(革命後の国内戦で赤軍に敵対したグループ)・民族主義者などの再逮捕が命令されたのだ。
 10年近く前の大粛清のOSOで、「10ルーブリ札」(流刑囚の隠語で10年の流刑)を言い渡されたかつての政治犯の刑期が明け、少しずつモスクワなどに戻ってきていたのだ。この人たちは、「再犯者」とレッテルを貼られ(最初の逮捕・流刑も、被逮捕者には身に覚えのないものだった)、再び流刑地に送られたのだ。今度は、無期、であった。
この項続く)​

 

昨年の今日の日記:「過剰流動性相場で日米の株価が堅調に回復、さてこれからは……」