​ 20年間、富士フイルムを率いてきた古森重隆CEOが、この6月に退任する。3月31日に発表した(写真=右側の人物が古森氏)。

 


 

海外旅行にカラーフィルムを10箱~20箱も持って出た時代​
 古森氏とはむろん面識はない。しかし経営者として祖業を取り巻く環境が激変する中、会社の舵取り、方向性を間違えないように事業構造を転換した経営者として尊敬している。
 僕の若い頃、カラーフィルムもカラープリントも高かった。もちろんデジカメなんて無いから、カメラはフィルムカメラである。
 最高級のカラーフィルムはフジカラーで、高いから僕は2番手のコニカカラーを使った。
 それでもフィルムは、無駄な物を写さないように被写体を厳選して使った。
 今では考えられないが、海外旅行に行く時は、フィルムを10箱~20箱も買って、スーツケースに押し込んだ。残りはあと幾つ、という管理に神経を使った。先進国は問題ないが、途上国ならカラーフィルムは無いか、あっても効果だった。先進国でも、万一、フィルム切れになるとどこで買えるか分からないから、ともかくもどこに行くにも、それだけ買い込んで出かけたのだ。
 

デジカメがフィルムを駆逐した​
 その環境に、激変が起こった。
 デジタルカメラ、すなわちデジカメの登場である。小さな記憶媒体をカメラに内蔵しておけば、事実上、無尽蔵にシャッターを切れた。フィルム管理の苦労など、念頭に無くなった。
 古森氏が、写真フィルム業界トップの富士フイルムの社長になったのは、2000年だ。ところがその頃、構造転換がまさに進行中だった。
 氏の言葉によると、「風呂の栓が抜けたように、みるみる写真フィルムの需要が減っていった」。当時、フィルムなどの写真事業は売上高の約6割を占め、利益の3分の2を稼ぐ屋台骨だった。これが、みるみる蒸発していくのだ(写真=まだカラーフィルムを市販しているが、高価)。

 


 経営者なら、眠れないほどの重圧だったにいない。
 

医薬品主力の会社に変身​
 氏は、フィルム製造会社として化学領域に親和性があるため、「第2の創業」として医薬品事業に活路を求めた。一方で、ここが一本立ちするまで、またカメラという光学機器も作っていたことから複写機などの事務機器に注力した。
 事務機器がオフィスのダウンサイジングで頭打ちになる頃、医薬品事業が軌道に乗った。
 2008年に富山化学工業を1370億円で買収した。現・富士フイルム富山化学と改名した同社は、今、武漢肺炎の治療薬と注目を集める「アビガン」(​写真​)を市場に出した。

 


 2011年にはアメリカのメルク社の事業を約400億円で買収し、バイオ医薬品の開発製造受託事業に参入した。さらに2017年には試薬を手掛ける和光純薬工業(現・富士フイルム和光純薬)を約1550億円で買収して、この分野にも橋頭堡を築いた。
 今では、こうした医薬品事業が柱に育ち、今年3月期の連結純利益は1600億円と、武漢肺炎パンデミック下でも過去最高益をたたき出している。
 

フィルムにこだわった老舗ビッグのイーストマン・コダックは経営破綻​
 見事に事業構造転換を果たした同社と対照的に、ライバルだったアメリカのイーストマン・コダック社はフィルムにこだわり、経営破綻した。明暗を分けた古森氏の判断は、「イノベーションのジレンマ」を乗り越えた事例としてMBAの教科書にも取り上げられたという。
 戦後間もなくに活躍したプロ写真家なら、コダックのフィルムは圧倒的な信頼があり、こぞってこのフィルムを使ったものだ。
 この事例を考えると、いかに経営者の判断が移りゆく事業環境に死活的に重要かがよく分かる。


なお「フイルム」を社名に残す心遣い​
 それでも古森氏は祖業に敬意を忘れなかった。2006年に社名(富士写真フイルム)から「写真」の文字を外しはしたが、フィルム売上は1%程度に落ちてもなお「フイルム」は社名に維持している。新たに買収した企業にも、「富士フイルム」を冠している。
 活字離れと無読層の膨張、少子高齢化という3大構造変化が起きている時、なお現状を固守しようとする一部「進歩的」新聞は、古森氏を見習ったら良い。

 

昨年の今日の日記:「武漢肺炎の給付金1世帯30万円の『絵に描いた餅』」