先史時代の絶対的権力者は、自らの権力を誇示するため、墓を主として、多くの巨大な記念碑的構造物を残した。エジプトの3大ピラミッド、メソポタミアのジグラット、そしてメソアメリカのティオテワカン王墓やティノチティトランのピラミッドなど。
 日本の前方後円墳も、同じようなものだ。
 様式こそ違え(日本の古墳には石室を除いて巨石は用いられない)、多くの民衆に畏敬の念を起こさせる他を圧するほどの巨大記念物は、世界のどこででも造られた。
 

27メートルの長大な船を棺とした船葬墓​
 イギリス・アイルランドでは、新石器時代から青銅器時代に巨大な石造墓ニューグレンジ(20年6月28日付日記:「ヨーロッパ新石器時代のアイルランドの巨大な石造墓に埋葬された首長の近親婚を確認」を参照)やストーンヘンジが築造された。
 しかし長さ27メートルという長大な木造船を墓としたのは、世界にあまり例がない。それが、イギリス、サフォーク州デベン川の近くの「サットン・フー」船葬墓である(写真)。

 


 船葬墓は、ヴァイキングが族長の埋葬に盛んに行っていたが、サットン・フーはそれではない。
 7世紀のアングロ・サクソン時代の王墓で、川から堀割を造り、大型船を引き上げ、その船が入れられるほどの巨大な穴を掘り、その船中に墓室を造って、被葬者を納め、その後に土砂をかけて埋め、大きな塚を造った。それは、大がかりな土木作業と建築工事であり、民衆の目を引いたに違いない。​
 

​​​​​​豪華な副葬品​
 サットン・フー遺跡は、多数の土塚の集合する群集墳遺跡で(下の写真の上)、その最大の塚は、1939年にアマチュア考古学者のバジル・ブラウンによって発掘され(下の写真の下)、船材は朽ちてなくなっていたが、その跡がはっきりと残っていた。イギリスではストーンヘンジと並ぶ重要な考古遺跡として著名だ。

 

 


 発掘調査で、アングロ・サクソン船に収められた263点の貴重な遺物が回収された。目を射るのは、人の顔を模したヘルメット(下の写真の上)や繊細な作りの金銀の装飾品、ベルト(下の写真の中央)、肩章(下の写真の中央)、鉄剣(下の写真の下)などの豪華な副葬品で、中には遠く中東のシリア、南アジアのスリランカからもたらされた物もあった。​​​​​​

 

 

 


 

被葬者は627年に死去したイースト・アングリア王か​
 年代を特定させる遺物もあった。西暦625年銘の金貨が出土していて、ここから被葬者は、627年に死去したイースト・アングリア王レッドウォールドではないかと推定されている。現在、豪華な副葬品は、ロンドンの大英博物館に展示されている。
 ちなみに僕は、ストーンヘンジこそ訪問して間近で観察したが、サットン・フーは観たことはない。サットン・フー船葬墓は、英文書物で読んだことがあるだけだ。
 

ローマ帝国支配を脱したイングランドで多くの王国の興亡​
 興味深いことに、イングランドではサットン・フー船葬墓以降、豪華な副葬品を埋納する墓はなくなる。いわばサットン・フーは最後の「豪華な墓」なのだ。
 イングランドでは、鉄器時代の末にローマ帝国軍が侵入し、ローマの属州になる。
 しかしそのローマ帝国も、度重なるブリトン人(ケルト人)の反乱で407年にはイングランドを放棄する。ローマ帝国支配から脱したイングランドには、その後、大陸からゲルマン系のアングル人やサクソン人といった征服者たちが次々に押し寄せた。
 400年~600年の間に、これらの勢力が合体して複数の王国となり、王国は7世紀にはキリスト教に改宗した。
 

キリスト教化により巨大な記念碑的墓造りと豪華な副葬品埋納も止めた​
 サットン・フーの被葬者と見られるレッドウォールド王の支配したイースト・アングリア王国は、非キリスト教の最後の支配者だったかもしれない。
 キリスト教化されたアングロ・サクソン諸王国は、王の死去に際し、もはや大きな塚も造らず、豪華な副葬品も埋納しなくなった。いわばサットン・フーは、非キリスト教の中世イングランド最後の残影だったのかもしれない。

 

昨年の今日の日記:「世界から新型コロナウイルスに汚染された危険な国と見られる国難の時、そして国会は相も変わらず『桜』というピンぼけ」