アメリカの現職大統領に3代続けて大統領官邸でじかに面会した日本人は、他にいるだろうか。しかも、幕末に。


見習い炊事夫として船に乗った13歳で漂流​
 アメリカ彦蔵こと、浜田彦蔵(洗礼名ジョセフ・ヒコ)である(写真)。

 


 播磨の生まれ(1837年9月、天保8年8月)で幼くして父を失い、13歳の時に母も失い、天涯孤独になった彦蔵は、義父の知己の船に13歳で見習いの炊(かしき=飯炊き)として永力丸という和船に乗り組んでいたが、航海中に暴風に遭って難破し、舵と帆を失い、沈没を免れるため帆柱も切り倒した「坊主船」で漂流し、サンフランシスコに向かうアメリカ商船に救助された。
 その後、曲折を経て、奇特なアメリカ人に世話になり、学校へも通い、またカトリックの洗礼も受けた。​
 

​​​ピアース、ブキャナンの各大統領と面会​
 そこに落ち着くまで彦蔵と生き残りの水夫たちは、一時期、開国を求めて浦賀にやって来た黒船のペリー艦隊に乗り、日本に送り届けられる予定であった。この時、彦蔵らは、ペリーの船に乗らなかった。
 香港でペリーの艦隊待ちをしていた彦蔵らは、アメリカに戻った(写真=サンフランシスコに滞在時の彦蔵、14歳の時)。そして親切な様々なアメリカ人の世話を受ける。

 


 特に彦蔵は、サンダースというサンフランシスコ税関長を務めていたアメリカ人に引き取られ、またサンダースに連れられてワシントンの官邸で1853年9月、第14代大統領フランクリン・ピアース(写真)と面会している。開国前の日本だから、彦蔵は日本人として初めてアメリカ大統領との会見したのである。そしてピアース大統領から苛酷な運命をねぎらわれている。

 


 1958年1月には上院議員ウィリアム・グウィンの引きで次の15代大統領のジェームズ・ブキャナン(写真)とも面会している。​​​

 


 

リンカーンとも面会!​
 この2人の大統領は、一般の現代日本人にはほとんど知られていない。しかし次に彦蔵が会った3人目の現職大統領は、日本人の誰もが知っているだろう、南北戦争を指揮し、戦後、凶弾に倒れたエイブラハム・リンカーン(第16代大統領=写真)だった。

 


 リンカーンと面会した彦蔵は、長身で農夫のような飾らない人物、という感想を抱いている。
 ピアース、ブキャナン、リンカーンが、たかが漂流民に過ぎない彦蔵に面会したのは、彦蔵が数奇な運命をへた、アメリカには誰もいない日本人という物珍しさがあっただろうが、当時のアメリカの身分格差のないフラットさもあった。
 彦蔵自身、最初にピアースと面会した際、日本では徳川将軍に相当する天上人との面会が信じられず、また実感も湧かなかったようだ。​
 

禁教下の幕末に帰国のためにアメリカに帰化​
 日米修好通商条約が成って、日本が開国し、彦蔵がいよいよ日本に帰国するに当たって、育ての親に等しい後見人のサンダースは、滞在中に彦蔵をカトリックの洗礼を受けさせたことが障害になっていることに悩む。開国しても、幕末の日本は依然、キリシタンは禁教であった。そのまま日本に帰れば、彦蔵は国法によって裁かれる。
 そのため、彦蔵はアメリカに帰化してアメリカ国籍を取得することになり、アメリカ人として帰国することになる。アメリカ人であれば、キリスト教徒であっても問題はなかった。
 アメリカで正式な教育を受け、サンフランシスコで商社にも勤めていたこともある彦蔵は、1859(安政6)年、9年ぶりの帰国を果たし、駐日公使のハリスに神奈川領事館通訳に雇われ、幕末の日米間のコミュニケーションの橋渡しをするという重責を担う。
 

攘夷派に命を狙われ、故郷からも疎外されて​
 ただ帰国した日本は、彦蔵には優しくはなかった。攘夷派に、日本人なのにアメリカに魂を売った奸賊として命を付け狙われ、神経を磨り減らした。難を避けるために一時、アメリカに帰国する羽目にもなった。
 また故郷にも3度訪れるが、そこでは村人から冷え冷えとした応対を受けた。とりわけ自分が漂流で死亡したとみなされ、戒名まで与えられていることに衝撃を受けている。
 漂流民でアメリカで教育を受け、帰国を果たしたと言えば、ジョン万次郎(中浜万次郎)が有名である。ただ彦蔵は、維新後は、さしたる活躍をしていない。中浜万次郎が教育者、政府高官として、アメリカや欧州に派遣されていることと大きな違いがある。
 彦蔵の栄光とエネルギーは、幕末にアメリカ領事館の通訳官として活躍した時にすべてが費消されてしまったかのようである。

 

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