​ 最近では人生100年時代とよく言われるが、明治から大正にかけて平均寿命は40歳ちょっとだった()。
 そう言うと、当時の人たちは50歳まで生きられなかったのか、と誤解される。そんなことはない。平均寿命とはゼロ歳児の平均余命だから、乳児死亡率を減らせば平均寿命は延びる。

平均寿命の急上昇のなぜ​
 明治・大正時代は、乳児死亡率が高く、それが平均寿命を押し下げていたのだ。日本は戦前まで、多産多死社会だった。田舎の農家では、10人近く子どもを産んで、そのうち3、4人は早くに死に、成人に達するのは半分ちょっとということがよく見られた。
 さて図を見ていただきたい。今から約100年前の大正10(1921)年、平均寿命が落ち込むが、大正14(1925)年に急激に上昇している。
 これは、この頃に乳児死亡が急減したことを物語る。何があったのか?
 先日、ある冊子を読んでいて、そのかげに東京市長を務めた後藤新平(写真)の英断があることを知った。

上水道の塩素殺菌を始めた後藤新平​
 後藤新平は、台湾総督府の民政長官や外相、内相も務めた器の大きい政治家だった(「大風呂敷」とあだ名された)。関東大震災時は東京市長の任にあり、復興の大業を担った。災害に強い街造りのために道路の拡幅などに尽力した。
 彼は、東京市長時代、ようやく普及し始めた上水道の水道水の塩素殺菌を始めた。雑菌の大量に含まれた生水が、乳幼児の死亡率を高めていることに気がついた後藤は、大正10年に日本で最初に東京市の水道水の塩素殺菌を始めた。彼は、医師でもあり、ドイツのコッホの研究室に留学し、細菌学の研究で博士号も受けている。
 この効果は、東京市での乳幼児死亡率を劇的に低下させ、それが全国に広がった結果が前記の平均寿命の急上昇をもたらした。
 

豪腕で用途の無くなった毒ガスを転用​
 塩素殺菌は、今日では常識だが、当時はそうではなかった。
 しかも使われたのが、毒ガス兵器として開発された液体塩素だった。
 液体塩素は、現・保土谷化学工業がシベリア出兵に際して使用する可能性があるとして当時の陸軍から製造を依頼されていたものだ。ところがシベリア出兵はすぐに終わり、製造した毒ガスとしての液体塩素の用途が無くなった。
 それに目を付けたのが、外相を務めたこともある後藤新平である。細菌学者でもある彼は、陸軍の反対を押し切って、毒ガスを民生用の水道水殺菌に転用した。これには、様々な妨害もあったはずで、押し切るにはかなりの豪腕が必要だったに違いない。後藤新平は、その政治力と実行力を持っていた。
 

台湾民生局長でも手腕も​
 後藤新平は、明治31(1898年)から8年半、台湾総督府の民政長官も務め、悪疫のはびこる台湾を清潔な環境の地に変えることに注力した。台湾が、武漢肺炎の防疫に世界で最も成功した国とされる遠因は、後藤の事績もある。
 毒ガスも用途によっては人類の福祉に役立ち、単純な反植民地主義の偏向思考は過去の日本の業績を歪めることを、後藤新平の成功は物語っているのである。

 

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