​ 武漢肺炎パンデミックで、思いつき的に突然に浮上した大学、小中高の秋入学構想(写真=秋入学となると、この光景も見られなくなる)。

 


 早くも尻すぼみの気配が漂う。
 

英語が公用語でない日本の大学に9月入学にしても留学生は来ない​
 秋入学の最も長所として挙げられたのは、日本の入学時期を欧米の大学・学校の秋入学と一致させることで、留学がしやすくなるという声である。いささか軽薄めいた「グローバル化に合わせて」という合理化が、それに続く。
 だが、実態はそんなに単純ではない。
 まず南半球の国々は、秋入学ではない。例えば日本人留学生にも人気の高いオーストラリアとニュージーランドは、2月、7月の2期制である(写真=日本人留学生にも人気のメルボルン大学)。

 


 また海外留学はまだしも、日本国内に欧米から留学生を呼び込めるからなどという議論は、日本の大学は英語を公用語にしていない大学ばかりだから、ナンセンス、噴飯物だ。9月入学に切り替えて得をするのは、就労目的で日本に「留学」してくるスターリニスト中国の落ちこぼれだけだろう。​
 

卒業半年遅れで莫大な家計負担​
 さらに秋入学にすると、その年の高校3年生、大学4年生は卒業が半年、後ずれする。社会に参加するのがそれだけ遅れ、また父兄に学費負担が半年分加わる。
 文科省の試算では、入学・始業を5カ月遅らせると、家計全体で計3兆9000億円の負担増が発生するという。
 さらに父兄の中には、1日も早く卒業して家計に貢献して欲しいという希望する人たちもいる。半年分の学費負担が増えたうえ、収入を得る期間が遅れることに耐えられない層もいるだろう。
 

巨額赤字財政で新規負担のコスト6兆円まかなえるのか​
 大学・学校の側は、導入した年は新1年生は、単純計算で1.5倍になるから、それに対応する教員・教室・設備が払底する(文科省が秋入学に移行する2案の中で、入学・卒業を1カ月ずつずらして5年かけて秋入学を実現するという案は、少しでも現場の負担を軽くしようというものだ)。
 日本教育学会の見積もりでは、新たに確保しなければならない施設や教職員のコストが少なくとも6兆円かかるとしている。
 武漢肺炎の2次にわたる巨額補正予算で、大した議論も無いまま、約50兆円もの赤字国債が増発される一方、経済の「圧殺」で今後5年間にわたって大きな税収減となる。
 そんなカネが、日本のどこにあるのだろうか。
 

後ずれ入学で国際競争力を削ぐ​
 9月入学にすると、学校教育法で定まった規定から、小学校を7歳半で入学する子も出てくる。これは、先進国では異例に遅い入学となり、またそれだけ高等教育修了者の社会参加が遅れることになるから、日本の競争力を削ぐことになる(秋入学案の変形として、小学校入学を6カ月前倒しして、5歳入学案も出ている)。
 さらに小中高の側は、導入した年は3月に卒業して、9月に入学する間、半年間もブランクが出来る。特例として、その年だけ6月末まで卒業を延ばすと、前述のような学費負担の他に、その間、何を教えるのかが問題となる。
 こうした困難さが次第に理解されてくると、やはり困難だという認識が各界に少しずつ広がっているようだ。
 

政治家の間でも空気は後退​
 最初は実現に前のめりだった萩生田光一・文科相も、26日の閣議後の記者会見で、「何が何でも9月に移行するなんてことは、1度も言ったことはありません」と姿勢を大きく後退させた。
 また同日の与党・自民党のこの問題での検討チームも、今年度はもちろん来年度も秋入学は導入しない、ということで一致したようだ。
 武漢肺炎感染対策で、学校を3カ月も休校したことで、思いつきのように出された秋入学のアドバルーンは、今や萎みつつある。
 そもそも学制は、その国の伝統や歴史的事情に応じて定められるべきものだ。欧米が9月入学だからという論拠は、そうした経緯を無視した軽薄論である。
 かつて東大が秋入学構想を打ち出したが、不発に終わり、その後、忘れられたように、いずれこの論議も忘れられるではなかろうか。

 

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