昨年の大河ドラマ『西郷どん』最終回が放映されたのは、今頃だった。最終回では、故郷鹿児島の城山に立て籠もった西郷隆盛ら一党の傷ましい最期を描いたが、彼らが戦死したのは明治10(1977)年9月24日、である。
 ドラマで西郷は、政府軍の銃弾に倒れて最後に死ぬが、実際は脚を撃たれて負傷、最後は別府晋介が介錯して首を切り落とされた。
 この日の最後の戦いで、西郷軍の幹部はほぼ全員が戦死・自刃した。別府も西郷の介錯の後、切腹して果てた。
 

​​西郷軍幹部でただ1人の洋行帰り​
 戊辰戦争で、会津藩など幕府軍を倒した薩軍だっただけに、傷ましい最後と言える。なかでも僕がひときわ哀切を覚えるのは、村田新八(写真)の自死である。

 


 西郷軍で散った幹部の中では唯一の洋行帰りだった(同じ城山に立て籠もって戦死した西郷隆盛の甥=妹・琴の次男の市来宗介も洋行帰りだったが、幹部ではなかった)。
 西郷、大久保利通らと同じ加治屋町の生まれ(写真)。加治屋町は、明治の元勲が多数輩出した一角だ。薩摩の伝統の「郷中(ごじゅう)教育」で、幼いうちに揉まれたからだろう。

 


 村田は、その加治屋町の郷中教育の中で年少の時から西郷隆盛に兄事した。幕末の動乱の中では、西郷と行動を共にすることが多く、島津久光の卒兵上京の前に久光の命に背いて西郷と共に京に赴き、久光の怒りを買う。​​
 

島こそ違え西郷と共に遠島​
 久光が怒ったのは、藩主・島津斉彬の死後、国父に就いた久光が公武合体を企図して上京しようとして、中央に知られた西郷隆盛の意見を聞こうとして流刑地から呼び戻した西郷を召し出した場で、「無位無冠の徒」、「じごろ」と愚弄されたことだ。
 これがもとで西郷は徳之島、その後は沖永良部島に遠島となるが、西郷と行を共にしていた村田新八も喜界島に流された(写真=喜界島に建てられている「村田新八修養の碑」)。

 


 その後、京で工作していた大久保一蔵(後・利通)に薩摩の窮状を訴えられ、西郷の帰還を求められるとしぶしぶ認める。西郷は、薩摩からの迎えの船で、途中、喜界島に寄って村田新八を救出した。
 

西洋の進んだ文物を観てきたはずだが​
 そうした互いの信頼感、村田新八の西郷への崇敬の念は、その後もずっと変わらず、明治7年に洋行から帰国して、西郷の下野・帰郷を知ると、大久保らの引き留めをも振り切って、惜しげもなく官を辞職して鹿児島に帰った。
 3年も海外に出て、世界をくまなく見てきたから、村田は合理的・革新的な考え方を確立していたはずだ。当然、西郷や彼に従った桐野利秋や篠原国幹らのような、時代の流れに取り残された生一本の単純派ではない。士族の既得権益を守ること、士族的な考えを保守することは、世界の趨勢から遅れることだと理解できたはずなのだ。
 それでも彼は、日本の近代化に邁進するではなく、西郷的な側に与した。それこそ、彼の変わらざる西郷への敬慕の念、義の心から、であった。
 

戦場でアコーディオンを弾いた文化人​
 西南戦争では西郷以下、前述のように多くの維新の立役者が戦死したが、その中でも村田は最も惜しまれる逸材だったと思う。もし生きて明治政府に再出仕していれば、維新の功績は伊藤博文や山形よりも大きく、また清廉だっただけに、大久保亡き後に薩摩閥を率い、後には首相にもなったかもしれない。
 和歌や漢詩を創る文人で、また音楽を愛し、欧米遊学中に覚えたアコーディオンを西南戦争従軍中も常に持ち歩いていて、戦場でも休憩中に弾いていたという。伝えられるところでは、西南戦争ではシルクハットにフロックコートという格好で戦っていた。
 西郷が、実弟の小兵衛を西南戦争で亡くしたように、村田新八の長男岩熊も、田原坂の戦いで戦死している。
 そして村田新八は、明治10年9月24日朝、最後の城山の総攻撃で負傷し、自決した。それが彼の美学であったとしても、まことに惜しい人物であった。

 

昨年の今日の日記:「札幌まで延伸の北海道新幹線、はたして飛行機との競争に勝てるか」