マルクスの有名な言葉に、「歴史は繰り返す。最初は悲劇として、2度目は喜劇として」というものがある(2度目を茶番とするものもある)(『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』)。
 日本政治でも、最近はマルクスの警句があてはまるような動きが出ている。

 

半世紀前、3分の1以下政党の社会党と20~30議席の民社党
 1960年~1970年代、日本政治は、永久政権の自民党が衆院選挙で常に3分の2近くを占め、万年野党・左派の社会党は決して3分の1を越えられなかった。
 それでも自民党が憲法改正を提起すらできなかったのは、常に20~30議席を取っていた第2野党の右派・民社党(発足当初は民主社会党と名乗っていたが、その後に単に「民社党」に改称)がいたからだ。第1野党の社会党の議席を足せば、3分の1超となっていた(下の上の写真=民主社会党結党大会で挨拶する委員長の西尾末広、下の下の写真=民社党OBたちの開いた結党50周年パーティー)。

 

 


 その意味で、民社党は60~70年代の政治でレーゾンデートルがあった。
 当時、野党の有力票田となっていたのは労組である。社会党は、官公労が中心の「総評」で、あまりの「おんぶに抱っこ」のために社会党は、「総評政治部」と揶揄されたほどだ。
 一方の民社党は、民間労組中心の「同盟」を支持母体としていた。

 

水と油の総評と同盟、政治部の社会、民社も
 ちなみに総評は階級闘争史観に立ち、同盟ははっきりと「労使協調」であった。
 いわば水と油だから、両ナショナルセンターは決して共同闘争は行わなかった。毎年春の恒例の賃上げ闘争も総評は春闘と呼ぶが、同盟は賃闘と言っていた。
 それを反映して、社会党と民社党の仲も、決して良くはなかった。野党だから、国会運営などでは共闘したが、重要法案では真っ向対立する局面も少なくなかった。
 例えば1965年の日韓基本条約では、批准国会で社会党が極少数派の共産党と共に反対し抵抗したが、民社党は自民党と共に批准推進、であった。

 

来年の参院選で進む立憲民主党=官公労、国民民主党=民間労組の構図
 時は変わり、労組もいつのまにやら「連合」にほぼ一本化され、政界でも社会党と民社党は、新進党などをへて、民主党、民進党になった。それが、昨年の衆院選の前に左派の立憲民主党と右派の国民民主党(全身は「希望の党」)に分裂した。
 来年に近づく参院選を前に、比例区で特に半世紀前の政界地図に近づいた。つまり立憲民主党は旧官公労に、国民民主党は旧同盟系の民間大単産の組織内候補が主流となりつつあるのだ。

 

参院選は安保批准後の1960年衆院選の再現狙いか
 実際、両党とも1人区で野党統一候補を立てることには積極的だが、2人区以上となると、話は別だ。
 衆院野党第1党の立憲民主党は、参院でも野党第1党を目指し、国民民主党の現職のいる2人区に新人をぶつける。2人区で自民党が2人を立てれば、共倒れの可能性がある。
 かつて新安保条約批准後に岸信介首相の退陣を受けて行われた1960年衆院選で、安保国会前に分裂した民社党の現職に社会党は大量の新人をぶつける形で立候補させ、民主党を23議席減に追い込んで17議席に転落させたことがある(民社党結党大会の模様とOBたちの開いた結党50周年パーティー)。
 立憲民主党は、今、それを再現させ、参院の野党第1党の座に就こうと狙う。

 

半世紀前の政界野党地図の再現?
 相も変わらぬ労組依存だが、この傾向が定着するとまさに60~70年代の政治地図の再現である。
 つまり立憲民主党=連合官公労系=旧社会党、国民民主党=連合民間主要単産=旧民社党、である。
 この図式が破綻したのは、もう半世紀前に実証済みだ。だから労組依存でない、保守も糾合した旧民主党が結成されたのではないか。
 「歴史は繰り返す」どころか、ただの先祖返りである。となると、やはり喜劇で終わるか。

 

昨年の過去の日記:「日本の中核派とも連携する極左過激労組に操縦される従北左派・文在寅の八方ふさがり;だが警戒は怠れない」