今回の僕たちの旅の旅行社の募集した最初のうたい文句は、「フラワーハイキングとサハリン鉄道」だった。

 

工事による全面運休を把握できなかった大失態
 ところが、サハリン(樺太)鉄道が6月からレール幅の改修工事で全面運休になることを迂闊にも旅行社が把握せず、出発直前の10日くらい前に「サハリン鉄道には乗れなくなりました」と言ってきた(18年7月19日付日記:「樺太紀行(1);戦前40年間の日本統治時代の遺産を探して」を参照)。
 ツアーの募集キャッチである2本柱のうちの1つが欠けるのは、もはや商品として成り立たないはずだ。
 それでも旅行社としては、ホテルや飛行機便を押さえている。ツアーの取りやめはできない。

 

樺太鉄道の代わりが鉄道博物館
 樺太鉄道に乗ることが、40年間の日本統治時代の遺産を探す旅という僕の主目的の1つだったので、「乗れない」という担当者の話を聞いた一瞬、キャンセルが頭に浮かんだが、もう職場にも休む、と言ってあるので、やむなく参加を承諾した。
 彼は、その代わり最終日にユジノサハリンスクの鉄道博物館(写真=博物館入り口。右端2人目が館長)に行くことにしますから、と弁解した。

 

 

 この博物館、当日訪れると、館長が直接応接し、説明してくれた(ただしもちろんロシア語で)し、他の来館者は誰も居なかったので、旅行社が特別のカネを出して開いてもらったに違いない。

 

1世紀近く前、宮澤賢治が樺太鉄道で栄浜まで行っていた
 実は詩人・童話作家の宮澤賢治が、1923(大正12)年夏、愛する妹・トシの鎮魂の旅に樺太鉄道に乗って、かつて豊原(現ユジノサハリンスク)から落合(現ドリンスク)近郊の終点の栄浜駅(スタロドゥープ駅=廃止)まで行っていたことは、この旅の募集で初めて知った。
 賢治がわざわざ花巻から樺太の栄浜(当時、日本最北端の駅だった)まで旅したのは、前年に早世した妹・トシの魂が北にある、と思ったかららしい。その経験が、童話『銀河鉄道の夜』着想に結びついたという(他に自分が教師を務める岩手県立花巻農学校の卒業生の豊原での就職斡旋の用もあったらしい)。

 

樺太鉄道に乗れずにキャンセルした人も2人
 さて樺太鉄道に乗ることは、ツアーの2つの目玉の1つだっただけに、失望した人もいたようだ(写真=運休中の樺太鉄道。ユジノサハリンスクで)。

 

 

 旅行社から直前に送られてきた旅程表には参加者22人となっていたが、実際の参加者は20人に減っていた。キャンセルした人は樺太鉄道に乗れなくなったことが理由、とTDの沖中さんが言っていた。
 樺太で暮らし、暴虐なソ連の戦後の対日戦争開始で着の身着のままで日本内地に避難してきた人たちは、約40万人いる。その中には子ども時代を南樺太で送り、親に手を引かれて避難してきた人で、まだ存命の人もけっこういる。キャンセルした人は、そうした夫婦だったのかもしれない。

 

賢治の降りた栄浜駅は1995年に廃止
 樺太鉄道には乗れなかったが、旅行社はバスで旧・栄浜駅近くに僕たちを連れて行ってくれた。
 バスの運転手が住民に在所を尋ね、旧・栄浜駅(スタロドゥープ駅)の跡に案内してくれた。
 日本統治時代、栄浜まで落合から1日6往復運行し、ソ連の乗っ取り後もスタロドゥープ駅として機能していた支線は、1995年に廃線となり、同駅も廃止された。
 行ったところで何もないことは分かっていたが、「ここです」と案内された現場を観ると、やはり感慨は湧く。

 

碑すら建てないサハリン州政府
 そこは夏草が茂り、所々、ミヤマキンポウゲなどのワイルドフラワーが咲いていた(下の写真の上)。よく見ると、かつての枕木の名残らしい木片も残っている(下の写真の下)。

 

 

 

 しかし、それだけ。
 日本なら、観光客を呼び込むために最低限、碑を建てるだろうし、ひょっとすると土産物売場を併設した小さな資料館も設置するかもしれない。日本には、宮澤賢治の『銀河鉄道の夜』のファンもいるし、鉄道マニアだってたくさんいるのだ。
 そんな「企業努力」もしないサハリン州政府。やはり共産主義体制の性根は牢固としている。

 

昨年の今日の日記:「エチオピア紀行(111):峠の露店と茶褐色の景観と棘だらけのアカシアの幼木」