秀吉のバテレン追放令の後、政権を奪取した徳川家康は、当初は幕府の基盤固めのためにキリシタンには寛容だった。
 しかし大坂冬の陣を前に豊臣家にキリシタンが結集することを警戒する一方、ヨーロッパでもカトリックの国ポルトガル、スペインが衰え、新教のオランダ、イギリスが東洋に進出し、ポルトガル、スペインに取って代わると、交易の利益のためにキリシタンに寛容にしている理由もなくなった。

 

幕府のキリシタン禁教令で
 1614(慶長18)年、徳川幕府は全国的な禁教令を発し、全国の教会と修道院は破壊され、外国人宣教師は日本退去を迫られた。
 長く加賀藩前田家の庇護下にあった高山右近がマニラに追放されたのもこの年だし、天正遣欧使節でローマ教皇にまで謁見し、帰国後は司祭に叙階された原マルティノ(写真=左が原マルティノで右は中浦ジュリアン)もマカオに追放された(17年3月14日付日記:「教科書でしか知らなかった天正遣欧少年使節の4人と「その後」(最終回=3/3);殉教の中浦ジュリアンと異境で亡命の原マルティノ」、17年3月13日付日記:「教科書でしか知らなかった天正遣欧少年使節の4人と「その後」②(2/3);8年後の帰国した祖国は禁教下」を参照)。

 

 

 一般のキリシタンは、宣教師の教えも受洗も受けられなくなった。
 そして1635(寛永12)年、幕府は先述の寺請制度を導入された。
 その2年後の1637(寛永14)年12月~1638年4月、天草四郎率いる島原の乱が起こる。

 

島原の乱と最後の宣教師小西マンショの殉教
 この乱は、当時の一帯を治めた松倉氏の農民に対する過酷な年貢取り立てが直接の原因で、また松倉氏支配に不満な浪人たちも加勢し、キリシタン反乱とは別の側面も強かったが、反乱に加わったのがキリシタン農民が多数だったことは事実だ。
 この乱で遺産登録された1つの原城(写真)に立てこもった農民たちは、全員殺された。その後の厳しいキリシタン狩りもあり、島原地方のキリシタンはほぼ全員虐殺されたといわれる。

 

 

 さらに1644(正保元)年、最後の宣教師の小西マンショ(祖父はキリシタン大名で知られる小西行長)が捕らえられて殉教し、日本からキリシタン宣教師は一掃された。この年以降、なお地に潜んだ農民キリシタンが、潜伏キリシタンである。一般には隠れキリシタンと呼ばれることが多い。

 

なぜ農民キリシタンは棄教しなかった?
 しかし『潜伏キリシタンは何を信じていたのか』の著者の宮崎氏は、キリスト教信仰が事実上容認された1873(明治6)年以降も、なお九州西北部各地で万人単位のキリシタンが残り、現代にまで至っていることから、地下信徒を意味する「隠れ」はおかしく、1873年以降のキリシタンは「カクレ」と記号に近いカタカナ表記にすべきだとしている。僕も、同感なので、以後、1873年以降のキリシタンは「カクレキリシタン」と表記する。
 では、かくも過酷な弾圧を受けた禁教下潜伏キリシタンは、なぜ大名のように棄教しなかったのか。

 

祖先が守り続けた教えだったから
 前述のように、宣教師もいなくなり、寺請制度も強制されたのに、長崎、島原、天草、離島地方では、なお多くのキリシタンは村単位で潜伏し続けた。
 彼らが守っていたのは、キリスト教ではなかったからだ。
 オラショは呪文のように意味が分からなくなり、唯一神ゼウスではなく、聖母マリアを神にしたりといった変容を遂げ、また仏教、神道の祭式も取り入れて、独自の土着化したキリシタンとなっており、それは「祖先が命に替えても守り続けたものだから、自分の代でやめるわけにはいかない」という祖先崇拝信仰、アニミズム信仰に変わっていたからに他ならない。

 

幕末の「崩れ」では5200人余が摘発されるもほぼ不問
 そのため初期にこそ、潜伏キリシタンであることが村単位で発覚すれば(これを「崩れ」という)死罪を含む厳罰が待っていたが、1805(文化2)年の「天草崩れ」では天草西海岸一帯で5205人(当時の人口の3分の1)もの潜伏キリシタンが摘発されたけれど、幕府は取り調べでキリシタン本態とあまりにも変わっていたため、彼らはキリシタンではなく、「心得違いの異宗徒」として不問に付された。
 つまり1644年の最後の宣教師・小西マンショの殉教後、潜伏キリシタンは幕府にとって全く無害な存在に変容してしまったということだ。
 天草崩れの摘発キリシタン数から考え、西北九州一帯では当時、数万人もの潜伏キリシタンがいたのだろう。それは、祖先崇拝の信仰に変容したことで、生き続けたのだ。
 必ずしも、「厳しい迫害に耐え、仏教や神道を隠れ蓑として命がけで信仰を守り通した」という一般に流布する存在ではなかったのである。
(この項続く)

 なお参考のために16年4月9日付日記:「江戸時代元禄期に鎖国・禁教下の日本に単身で布教に来たイタリア人宣教師シドッチ司祭の遺体を確認」も参照されたい。

 

昨年の今日の日記:「東京都議選、自民党の大敗・惨敗と都民ファーストの大躍進のかげで」