1人の女性遺伝学者が野生のキツネを60年近くも選抜育種・累代飼育したことにより、人類がいかにしてオオカミをイヌに変えたかの道筋を明らかにした。

 

60年前にモスクワ大で出会った教授に誘われ
 選抜育種の実験をしてきたのは、シベリア、ノヴォシビルスクの細胞学・遺伝学研究所のリュドミラ・トゥラトゥ(Lyudmila Trut)氏だ(写真)。それにより野生の荒々しいアカギツネ、ギンギツネが、家犬のように人になつくようになったのだ。

 


 まさにキツネがイヌに変えたのである。
 トゥラトゥ氏が最初にこのプロジェクトに関与したのは、名門の国立モスクワ大学を卒業する前の女子学生時代だ。そこの研究室の教授だったドミトリー・ベリャーエフ氏が、新設のノヴォシビルスクにある細胞学・遺伝学研究所に赴任する直前だった。
 ベリャーエフ氏の構想を聞き、そのプロジェクトに生涯をかける決心をしたトゥラトゥ氏は、夫と幼子を連れてシベリアに赴任した。
 それから約60年。58世代のキツネを選抜育種し、イヌそっくりのキツネが定着した。

 

ヒトとオオカミとの出会いの中の奇跡
 今のイヌが、オオカミからヒトの手で選択されてつくられたことは疑いない。かつてはアフリカのジャッカルなどもその候補に擬せられたことがあるが、イヌや他のイヌ科動物の遺伝子研究が進展し、「オオカミ」起源で決着した。
 現在の室内小型犬には、大型で精悍なオオカミの面影など全くないが、ヒトが数万年という気の遠くなる時間をかけて育種してきた結果である。
 最初は、きっと狩猟採集民の移動する野営地に、小パックのオオカミが接近したのだろう。あるいは親からはぐれたり亡くしたりした仔オオカミを、拾ってきたのかもしれない。
 その中で、たまたまヒトを怖がらず、また性質も比較的マイルドな個体がいたに違いない。狩猟採集民は、餌を投げ与え、オオカミはそれを食べ、ヒトに身近な存在になっていった。

 

まず扱いやすそうなキツネの個体数百頭を集め、ケージ飼育
 そのうちヒトによくなつき、しかし野生の猛々しい性質を失わない個体を狩りに連れて行くようになり、彼らは「猟犬」になった。野営地では、夜、敵や他のオオカミが近づけば、遠吠えで狩猟採集民に教えたに違いない。
 僕は、この実験を、過去にいくつかの本で読んで知っていた。しかしいまだに続けられていて、ついに58世代にまでいったことは最近の日経サイエンス誌で知った。
 まず最初にトゥラトゥ氏がやったのは、旧ソ連の各地に営まれていた毛皮動物飼育場から比較的扱いやすい個体を、数百頭集めたことだ。そしてケージで飼育を始めた。

 

最初は「火を吐く竜のような」凶暴さ
 扱いやすい個体でも、イヌ科の野生動物である。人が不用意に手を差し出せば、鋭い犬歯で噛みつき、大けがをする。
 だから飼育員たちは、防護のために厚さ5センチもの手袋をはめた。その上で、ケージの中に棒を差し入れて、キツネの反応を点数化した。そのうち最も穏やかな反応だった個体が最高得点として、生殖を許された。
 むろん最初の数年間は、大半のキツネは「火を吐く竜のよう」だったという。これら低スコアのキツネは、トゥラトゥ氏や飼育員の手を食いちぎろうとしていたようだ。

 

ついに人に尻尾を振った
 しかし少数のキツネは、ずっと棒を差し入れる人間の様子をうかがい、特に何の反応もするわけではなかった。
 こうしたキツネたちが集められ、交配された。この際、近親交配とならないように、特に注意された。
 こうした選抜育種が、何年も続けられた。
 そのうち4代目から5代目になると、歩けるようになった仔ギツネが、トゥラトゥ氏を見ると、小さな尻尾を振った。

 

6代目の2%の個体は積極的に人になつこうとした
 そして6代目になると、仔ギツネは尻尾を振るだけでなく、クンクンと甘えるように鳴き、イヌがするように人を舐めるなど、積極的に人と接触しようとするようになった。
 こうした個体たちは「エリート」と呼ばれ、名前をつけられたが、彼らの中には名前を呼ばれると顔を上げるものまでいたのである。
 6代目の段階でエリートの比率は飼育個体の2%程度しかいなかったが、今では70%にも達している。

 

「イヌ化」は形態にも
 やがて「イヌ化」は、性格だけでなく、形質にも現れるようになった。
 成長しても吻部が短く、幼体のような顔のままになり、尻尾はふさふさし、繁殖サイクルが短くなった。キツネ同様、オオカミや野生犬のディンゴは年1回だが、家犬は年2回だ。これは安全な環境で食物にも恵まれているからだろう。垂れ耳になった個体や、毛にブチが入った個体も出た(写真;家犬化したキツネたちを抱くトゥラトゥ氏をを中心にした飼育チーム。通常のキツネなら抱くことなどできない。;幼体を抱く研究者家犬化したキツネを抱く研究者。通常のキツネなら抱くことなどできない)。

 

 


 今、トゥラトゥ氏のお気に入りのペットキツネの「プシンカ」は、家の中で飼われ、外出から戻る時は耳ざとく足音を聞きつけて、ドアの所で待っている。一緒に散歩に出ることを喜び、時に仰向けになってお腹をなだることを催促したりする。

 

◎12番染色体の遺伝子に変化
 トゥラトゥ氏が外出する時は窓際に座って、帰宅を待ち、帰ってくると、尻尾を振って迎えるという。
 その後、さらに「イヌ化」の進んだ個体が生まれている。生まれつき、(ペット犬がやるように)人の視線と身振りを目で追い、もはや吻部は引っ込み丸くなった。四肢は、野生ではとうてい生存できないほど短く、ずんぐりした。まさにペットの特徴である。
 それは、遺伝子レベルでも突き止められている。家畜化(イヌ化)の性質と形態を特徴付けるのは、野生キツネとペットキツネでは12番染色体が変化していたのだ。この変化は、イヌの家畜化と同じ遺伝子座で起こっていた。

 

◎自然界で決してイヌは生まれなかった
 こうして野生オオカミから家畜イヌへの変化のトレースは、ほぼ再現できた。
 だがヒトが関与しない自然界では、この過程は決して進まないのも明らかだ。前記のように温順個体は、たまたま生まれたとしても自然界では強壮な他個体に生存競争で敗れ、決して子孫を残せないからだ。
 人工環境が、イヌ化を可能にした。
 だからおそらく3万年前頃、狩猟採集民と原始イヌ=オオカミとの出会いは、偶然であっても劇的であったと言えるのである。もしこの出会いがなければ、後に羊とヤギが家畜化されるようになったのも、もっと遅れたかもしれないのだ。

 

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