ゲバラらと共にキューバ革命を成功させ、半世紀にわたってキューバに独裁者として君臨した前国家評議会議長のフィデル・カストロが、25日午後10時半(日本時間26日午後0時半分)に死去した。90歳だった。共にキューバ革命を戦った戦友にして実弟の現国家評議会議長のラウル・カストロが26日(日本時間の本日)、国営テレビを通じ発表した。
 フィデル・カストロの名は、60年安保世代には英雄的に響くが、70年安保世代には色あせ、80年代以降の世代にはほとんど名も知られなくなっていた。フィデルの死は、世代の移り変わりを映し出す。
 60年安保世代が英雄視するのは、前年の59年1月1日、「7月26日運動」を率いて困難なゲリラ闘争の末に右翼独裁者のバティスタ政権を打倒し、アメリカの目と鼻の先で、西半球で最初の社会主義革命を達成したからだ(写真=バティスタが逃亡した首都ハバナに入城するフィデル・カストロと「7月26日運動」の同志たち)。

 


 しかしフィデルの名と共にキューバの国名を不朽のものとする62年の「キューバ危機」は、世界を核戦争寸前にまで追い込んだ。これは、歴史上、世界が最も核戦争に近づいた危機だった。ソ連の核ミサイルをおもちゃに、フィデルがキューバ国内に核ミサイルを持ち込んだことによって起こった。
 その後、7月26日運動による革命戦争を戦った最大の同志のゲバラが世界革命を目指すと袂を分かち(ゲバラはボリビアでゲリラ戦の最中、悲劇的な死を迎える)、キューバをソ連の衛星国にした。シエラ・マエストラの山中での苦しいキューバ革命の戦いの過程で、ソ連派共産党であるキューバ人民革命党の妨害を受けていたのに、である。
 70年代から80年代にはソ連の求めに応じ、アフリカの複数の左翼独裁政権にキューバ軍を派遣した。僕が、断続的に書いているエチオピアも、メンギスツ左翼政権を支援するため、キューバ軍が派兵された国である。
 それは、ソ連から経済援助と安い原油を得る見返りであった。
 ソ連の行き詰まりとその後の崩壊で、キューバは中南米の最貧国に転落し、その後、物不足による深刻な経済不振の中、病気を理由に2008年には弟のラウルに国家評議会議長を委譲したが、政治的な影響力はなお保っていた。

 

 

ゲバラらと共にキューバ革命を成功させ、半世紀にわたってキューバに独裁者として君臨した前国家評議会議長のフィデル・カストロが、25日午後10時半(日本時間26日午後0時半分)に死去した。90歳だった。共にキューバ革命を戦った戦友にして実弟の現国家評議会議長のラウル・カストロが26日(日本時間の本日)、国営テレビを通じ発表した。
フィデル・カストロの名は、60年安保世代には英雄的に響くが、70年安保世代には色あせ、80年代以降の世代にはほとんど名も知られなくなっていた。フィデルの死は、世代の移り変わりを映し出す。
60年安保世代が英雄視するのは、前年の59年1月1日、困難なゲリラ闘争の末に右翼独裁者のバティスタ政権を打倒し、アメリカの目と鼻の先で、西半球で最初の社会主義革命を達成したからだ。
しかしフィデルの名と共にキューバの国名を不朽のものとする62年の「キューバ危機」は、世界を核戦争寸前にまで追い込んだ。これは、歴史上、世界が最も核戦争に近づいた危機だった。ソ連の核ミサイルをおもちゃに、フィデルがキューバ国内に核ミサイルを持ち込んだことによって起こった。
その後、革命の最大の同志だったゲバラが世界革命を目指すと袂を分かち(ゲバラはボリビアでゲリラ戦の最中、悲劇的な死を迎える)、キューバをソ連の衛星国にした。苦しいキューバ革命の戦いの過程で、ソ連派共産党であるキューバ人民革命党の妨害を受けていたのに、である。
70年代から80年代にはソ連の求めに応じ、アフリカの複数の左翼独裁政権にキューバ軍を派遣した。僕が、断続的に書いているエチオピアも、メンギスツ左翼政権を支援するため、キューバ軍が派兵された国である。
それは、ソ連から経済援助と安い原油を得る見返りであった。
ソ連の行き詰まりとその後の崩壊で、キューバは中南米の最貧国に転落し、その後、物不足による深刻な経済不振の中、病気を理由に2008年には弟のラウルに国家評議会議長を委譲したが、政治的な影響力はなお保っていた。