小さな家とキャンバス以外、何も持たない貧しい画家が女優に恋をした――そう、加藤登紀子の『百万本のバラ』の歌である。
 この歌を初めて聞いた時、その叙情的な歌詞と哀調溢れる曲に深く感動した。

 

ある街の貧しい画家が恋した女優に捧げた百万本のバラ
 その貧しい画家は、小さな家とキャンバス――それが彼の全財産だった――を売り払って街中(まちじゅう)のバラを買い、その百万本の赤いバラの花を女優の宿舎の前の広場に埋め尽くした。
 朝、目覚めた女優は、きっとお金持ちの誰かがふざけたのだろうと思った。窓の下で貧しい画家が見上げているのにも気づかず――。
 そして女優は、別の街に行ってしまった。すべての財産を売った画家は、しかしその思い出を生涯、忘れなかった――。
 なんと切なく、そして甘美な恋だろう。

 

ブレジネフ体制最末期にソ連で大ヒットした原曲
 加藤登紀子の歌った歌は、元は1982年、ブレジネフの死んだ年、閉塞したソ連で大ヒットした歌だった。
 国民的歌手のアーラ・プガチョーヴァ(写真)の歌う美しくも哀調を帯びた歌は、ソ連国民に熱狂的に迎えられた。まるで、やがて訪れるソ連の崩壊と経済的大混乱を予言するような歌、であった(ロシア語のアーラ・プガチョーヴァの歌はhttps://www.youtube.com/watch?v=zDjotWBFi4Yを参照)。

 


 『百万本のバラ』は、まさしく時代を予兆したもの、つい先日まで、そう思っていた。

 

独立への夢が秘められた占領下ラトヴィアで作られた元歌
 しかし先日、新聞のコラムで、この原曲は、この1年前の1981年、当時ソ連の支配下にあったラトヴィアで作られた『Dāvāja Māriņa(マーラは与えた)』という歌を、歌詞を全く変えたものであることを知った。筆者は、ブレジネフ体制最末期で、歌詞を全く作り替えたとしても、よくぞこの歌の発表が当局に許可されたものだ、と驚いていた。
 ラトヴィア語の原曲の詞には、「マーラは娘に生を与えたけど、幸せはあげ忘れた」という一節があるからだ。
 マーラとは、ラトヴィアに古く伝わる聖母で、娘とはラトヴィアの国を暗示する。つまりラトヴィアという娘を産んだもののスターリン主義体制ソ連という大国の桎梏につながれて幸せは与えられなかった、という嘆きがこめられているのだ。
 その先には、見果てぬ夢であるラトヴィア独立への願いが秘められているのは明らかだ。

 

ソ連赤軍の侵略による侵略後は10数万人の犠牲
 実際、ラトヴィアは他のバルト2国と隣国ポーランドと共に、不幸な国だった。
 ラトヴィアを含めたバルト3国は、第1次大戦前は長く帝政ロシアに支配され、ロシア革命後に独立を果たしても、すぐにスターリンのソ連赤軍の侵略を受けてソ連邦に強制併合されてしまったのである。ソ連による占領と支配で、10数万人ものラトヴィア国民が銃殺または過酷なシベリア流刑になった。
 ブレジネフ体制最末期、その時は誰も予想できなかったソ連解体、それに先駆けた独立など、夢にも見られなかったことである。

 

旅行したのに『マーラは与えた』の意義を聞けなかった無念
 しかし民衆は、密かにその日の来るのを願っていただろう。それが『マーラは与えた』の作詞・作曲となり、ロシア語に変えられて全く違う歌になったとしても、ラトヴィア人の間では密かに元の『マーラは与えた』が歌い継がれたに違いない。
 僕は、2年前の7月、ポーランドとバルト3国を旅したけれども、この話は聞かなかった。少なくともこの元歌を知っていれば、現地ガイドにこの歌がどれだけラトヴィア国民を癒やしたかを聞けたのだが。
 今、ウクライナからクリミア半島を武力で強奪したプーチンのロシアと公然と「協力できる」と呼びかけるアメリカ新大統領のトランプ当選のニュースを、ラトヴィアなどバルト3国とポーランド国民はどのように受け止めているだろうか。

 

 

 

 写真は、ラトヴィアの首都リガでの独立の記念的建造物など。

 なお、原曲『マーラは与えた』は、日本語歌詞で小田陽子さんが『マーラが与えた人生』と題して歌っている。懐かしい美しいラトヴィアの街を背景にして、ユーチューブで聴ける(https://www.youtube.com/watch?v=Isn2Trf5JNI)。

 

昨年の今日の日記:「バルト3国紀行59:観られなかった中世ヨーロッパの不安を背景に描いた聖ニコラス教会展示の『死のダンス』の絵」