来年の年初にも衆院解散・総選挙が噂される昨今、共産党内には民共共闘に煮え切らない蓮舫民進党にいらだちの声が高まっている。

 

バーターを提起する共産
 蓮舫民進党が煮え切らないのは、支持団体の労組「連合」が共産党との共闘に後ろ向きだからだ。先の新潟知事選でも「連合」は、民進党出身の米山隆一に背を向け(すなわち共産党に背を向け)、自主投票の立場を堅持した。これに引っ張られて蓮舫民進党は、正式に米山に推薦も支持も出さなかった。
 共産党委員長の志位和夫は、連合に従うか(共産党との)共闘に真剣に取り組むか、早くどちらかを選べ、とせっついている。民共共闘になっても、これまでのように共産党が一方的に候補者をおろし、民進党を支持することに否定的だ。共産党が自党の候補をおろして民進党に一本化すると同時に、民進党も候補をおろし、小選挙区での共産党公認候補を支持しろというバーターを迫っている。
 これには、民進党党内の保守派は決して容認しないだろうから、共産党のバーター取引の呼びかけは実を結ぶ公算はかなり低い。

 

京都、東京の「革新」知事のもとで共産党に切り崩されて衰退した社会党
 共産党の求めるこの取引は、悪魔のディールである。
 必ず共闘相手は、共産党に組織を切り崩されるからだ。戦後の東ヨーロッパでの社会民主党と共産党の連携でも、社民党は究極的に共産党に吸収された。反対する社民党の党幹部は、共産党の秘密警察に粛清されていった。
 わが日本でも、最初は1960年代の京都府の、次は1970年代の東京都が、それに近かった。むろん民主主義国の日本では、暴力による粛清はできないが、社共共闘に基づくいわゆる「革新首長」の下で、社会党は次第に支持基盤を切り崩され、少数派に転落していった。

 

社会党は一時は自民党を抜いて都議会第一党にも
 東京の例で言えば、美濃部「革新」都政下で、与党となった社会党と共産党は、選挙のたびに社会党が都議会議席を減らす一方、共産党は増やしていった。1960年代初頭、社会党は都議会で一時、自民党を抜いて第1党になったこともある。当時、共産党は都議会で確か1議席も持たなかったはずだ。
 ところが美濃部「革新」都政下で、与党の共産党は都庁、都教組、その他に深く食い込むようになった。機関紙「赤旗」が、その武器となった。つまり最初は日曜版を取らせ、次に日刊紙を購読させ、シンパないしは党員に獲得していく。

 

10倍もの議席差が大逆転で最終的に都議会ゼロに
 この過程で10倍も議席数のあった社会党は、地盤の労組・市民票を、美濃部与党を錦の御旗にする共産党に食い荒らされていき、ついに議席数で抜き去られ、今では都議会に議席すら持たないまでに衰退した。完全に「庇を貸して母屋を取られる」の戯画である。
 衰退著しい共産党が狙うのは、この再来である。
 民進党内でも、当落線上の候補者には、共産党の票による支援はありがたいだろう。しかし共産党の支持で辛うじて当選できた民進党議員は、もはや共産党の要求に従うしかない。あらゆる要求を拒めず、やがては共産党の傀儡になるしかないのだ。
 今、蓮舫民進党は、党が主体性を失うか固守するかの分岐路に立つ。主体性を失った党は、いずれ60年代の京都の社会党、70年代の東京の社会党の二の舞となろう。
(完=写真はエチオピア紀行の補遺)

 

 

 

 

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