今さらながらだが、秋の1日、紅葉を求めて日光に行ってきた。20数年ぶりの再訪である。天気は、いま1つだったが、中禅寺湖畔の紅葉は美しかった(写真)。

 

 

昨年3月にオープン
 意外と良かったのは、「金谷ホテル歴史館・金谷侍屋敷」(登録有形文化財)であった(写真は同歴史館の庭園から観た外観。ガラス戸超しに参観者の見える部屋が後述のイザベラ・バードの泊まった部屋。は同歴史館の資料室で、左の壁に架かっているのが晩年の創業者・金谷善一郎)。

 

 

 日光は、過去に何度も訪れたが、同所は初めてだった。それもそのはず、一般公開は昨年3月からだった。
 鎌倉時代の武家住居を基本に、後に増築した古い木造建築である。ここを譲り受けた、後の名門ホテルである金谷ホテルの創業者・金谷善一郎が、初めて外国人向けホテルをここで開いた。

 

金谷善一郎、21歳で外国人向け宿泊施設を開業
 金谷善一郎(写真)は、代々東照宮の雅楽師を務める金谷家に生まれた。自らも笙を担当する楽人であったが、進取の気性に富む善一郎にホテルの開業を勧めたのが、ジェームス・ヘボン博士だった。ちなみにヘボン博士は、明治学院の創設者であり、また「ヘボン式ローマ字」の考案者でもある。

 


 英語も解さなかった善一郎は、ヘボン博士の勧めを受け、自宅を改造して「金谷ホテル」の前身となる「金谷カテッジイン」を21歳という若さで開業、日光を訪れる外国人が安心して泊まれる宿として評判を高めていった。
 博士の薦めで金谷カテッジインを訪れた外国人の1人に、僕もよく知るイザベラ・バード(1831年~1904年)がいた(写真)。

 

 

イザベラ・バード、日本奥地紀行に金谷カテッジインの「おもてなし」に感動
 イザベラ・バードは、19世紀の大英帝国の旅行家、探検家、紀行作家、写真家などとして名高い。僕がイザベラ・バードの事績を知ったのは、『ナショナル・ジオグラフィック』でだったが、1878年(明治11年)6月、訪れた金谷カテッジインを彼女はいたく気に入ったようだ。
 なんと12日間も滞在するのだが、著書『日本奥地紀行』(高梨健吉訳、平凡社)には「まもなくして、わが宿の主人金谷が姿を見せた。とても快活で愛想のよさそうな人だった。……地面に頭を着けんばかりに深々と垂れて挨拶した」とか、案内された部屋について「こんなにも美しい部屋でなければよいのにと思うことしきりである」とか、1世紀以上も前の「おもてなし」に深く感動するのである。

 

世界に発信、明治初期の日本の田舎の実像
 僕たちは、イザベラ・バード(その他多くの著名な外国人宿泊客)が泊まった部屋と、彼女の通訳兼従者の伊藤鶴吉の宿泊した部屋も見学した。イザベラ・バードの部屋は、8畳の和室で、奥の襖を開けると階段を4段下がった下に伊藤鶴吉の泊まった7畳の和室があった。
 イザベラ・バードの書いた日本旅行記『Unbeaten Tracks in Japan(邦訳は前記)』は、1880年にイギリスで2巻本として出版され、その後も版を重ねた。
 この本は、地方の田舎を含めた明治初期の日本の庶民の暮らしと美しい日本の風景を欧米に初めて紹介したものだった。いわばイザベラ・バードは、最初の日本の風物の紹介者であり、彼女を感動させた金谷カテッジインのおもてなしは広く世界に伝えられたのである。

 

昨年の今日の日記:「安倍首相の訪問のウズベキスタン、ナポイ劇場は68年前に日本人抑留者の建てた『記念的建造物』で、今に至る親日的な国民感情を醸成」