頭はいいけど、節操のない人――衆院議員・浅尾慶一郎氏と先に新潟県知事に当選した米山隆一が、当今の双璧ではないか。いずれも東大出で、しかも米山の如きは医学部卒だし、浅尾氏も文系の最高峰の法学部卒で、さらにスタンフォード大でのMBA取得だ。頭はいい、確かに。
 しかしその頭の良さは、誠実さと引き替えのもののようだ。

 

元・みんなの党代表の浅尾慶一郎氏が自民会派に加入
 浅尾氏(写真)は、このほど無所属から自民会派に加入した。

 


 先の2014年12月の総選挙前は「みんなの党」代表、さらに幹事長も務めた人である。浅尾氏の自民会派入りで、みんなの党元党首であった渡辺喜美氏(日本維新の会副代表)は、「与党との接近を批判して解党したくせに」と憤懣やるかたない。解党後は、古巣の民主党に戻りたかったらしい。
 渡辺氏から批判されたように、この人の所属は実際にめまぐるしい。みんなの党に入る前は、民主党の参院議員を務めていた。民主党から離れたのは、2009年の衆議院議員総選挙に際し、参院議員を辞職した上で衆議院神奈川4区から立候補したかったのに、受け入れられなかったからだ。
 そこで行き場を失った浅尾氏は、みんなの党に参加したという経緯がある。

 

民主党公認で参院初当選
 おそらく最初の選挙に出る時も、本当は衆議院選で、自民党から出たかったはずだが、出たい選挙区に現職がいて、やむなく新進党の公募に応じた。
 1996年の衆議院議員総選挙に新進党公認で神奈川4区から初立候補したが、次点で落選した。1997年、新進党が解党してしまうと、「新党友愛」の結党に参加し、1年後に民主党に合流したのである。
 その年、折よく参院選があったので、次の衆院選まで待てず、民主党公認で神奈川県選挙区から出馬し、トップで初当選を果たした。

 

当選しそうな党、選挙にとにかく出る
 浅尾氏は、自民会派入りの理由として「政治家は政策実現が第1。(与党に復帰の見通しのない)民進党では実現できない」と言う。しかしそれは、最初から分かっていたことだ。
 新進党→新党友愛→民主党→みんなの党→無所属、そして今回の自民会派入りで、やっと本命にたどり着けたというところか。行き当たりばったり、当選しそうな党、選挙にとにかく出る、という姿勢だから、このような軌跡をたどったのだ。
 しかし自民党なら(まだ入党していないけれど)、まだ1年生だ。大臣の椅子が回ってくるのは、遠い先である。この流浪の人、はたして落ち着くだろうか。

 

政界初進出は11年前、自民党公認で田中真紀子に挑戦
 10月16日の投開票で大方の予想を裏切って逆転当選した新潟県新知事の米山(写真)も、渡り鳥のように所属を変えた。

 


 彼が政界に進出したのは、2005年の衆院選だった。この時は、自民党の公認を得て、新潟5区から出馬したが、ここは元田中角栄の強力な地盤だ。全国的には与党に強い追い風が吹いたものの、無所属で出た角栄の娘の田中真紀子に敗れ、比例復活もならず落選した。
 次の2009年の衆院選でも懲りもせず、再び自民党公認で新潟5区で田中真紀子に挑戦し、前回より得票数を伸ばしたものの、総選挙直前に民主党に入党した田中真紀子に大敗を喫した。この選挙は4Kバラマキ策を掲げ、マスコミがこぞって「政権交代」を呼号し、民主党に猛烈な追い風が吹いた選挙だった。

 

次は橋下ブームの維新、次いで参院に転じるも討ち死に
 これで米山は自民に見切りをつけた。野党に転落した自民党に居ては、いつまでも当選できないと、2012年の衆院選では、橋下ブームに沸く日本維新の会に鞍替え、公認を得て、やはり新潟5区から出馬した。
 ところがこの選挙でも、比例北陸信越ブロックから国替えした自民党前職で元山古志村長の長島忠美氏、現職の文部科学大臣だった田中真紀子に後れを取り、3度目の落選の憂き目を見る。
 さらに2013年には参院選に鞍替え出馬し、日本維新の会公認で定数の2の新潟県選挙区から出馬したが、得票数4位でまたも落選した。
 その後、2016年の参院選前に、現・民進党の結党に参加したが、新潟選挙区が定数1の1人区になったことで、生活の党(現・自由党)の元参院議員の森裕子を無所属統一候補として応援せざるをえないことになり、立候補そのものを断念した。

 

泉田後継を名乗り、反原発派に豹変して新潟県知事選に出馬
 今回、4選出馬すれば圧勝の呼び声が高かった泉田前知事が急遽、出馬を断念したことで、苦節11年の米山に光明が見えた。ここで、カメレオンのように変身を繰り返してきた米山は本領を発揮する。
 かつて放射線医学総合研究所勤務などの経歴から筋金入りの原発推進派と目されていたのに、知事選出馬前に「泉田後継」を勝手に名乗り、反原発派に豹変したのだ。
 電力労連と連合の反発を受けたため、民進党を離党し、共産党、社民党、生活の党(現・自由党)の3党の推薦を受けて知事選に出馬した(この間の経緯については、10月4日付「民進・蓮舫、新潟県知事選不戦敗で曝したどうしようもない力量不足」を参照)。

 

維新の会当時は強烈な原発推進派
 米山が、筋金入りの原発推進派だったのは、自身の過去のブログでもはっきりと明記している。
 いわく「勇気と覚悟をもって、原発の再稼働と消費税の増税にYesといいましょう(2012年7月19日付)」とか、「今、日本が、世界最高水準の技術を持ち、世界有数のエネルギーを生み出している原子力技術を放棄するということは、極めて非現実的(同年12月3日付)」と言い切っている。ちなみにこの時、米山は原発に慎重だった日本維新の会の所属だった。

 

当選するため、権力に近づくためなら何でもあり、か
 それが、どうして唐突に反原発なのか。
 知事選狙いの豹変であることは明らかで、その嗅覚どおり「原発、何となく不安」の一般人の非科学的な不安につけ込んで集票し、自民・公明推薦の森民夫氏に勝利した。
 これまで国政選挙に4連敗・1不戦敗の負け犬が、「反原発」でやっと浮上した図である。ここらあたり、前記の浅尾慶一郎氏とよく似た政治的軌跡をたどったが、違いは米山の場合、節操を欠くどころか誠実さすらないこと、そして落選を続けたことだ。当選のためには、悪魔に魂を売ることさえ辞さないのだろう。
 今の日本、当選するためなら、権力に近づくためなら何でもあり、という情けない状況を体現する2人である。

 

昨年の今日の日記:「バラマキスト民主党に見切りをつけた松本剛明議員が離党、共産党に完敗の宮城県議選が浮き彫りにした民主党の閉塞」