大学入試の化学で、クイズのようなアンモニア合成の空中窒素固定法の発明者を問う問題が出た。今ならスラスラと答えられるが、未熟者だった僕は解答できず、終了後、一緒に受けた級友に「誰だっけ?」と尋ね、ハーバーの名を挙げられて、地団駄踏んで悔しがった思い出がある。次からの関連設問の枕だったので、配点は1、2点だったらしく、幸いにも僕は入試をパスした(一緒に受けた同僚は落ちた)。

 

ノーベル平和賞にも匹敵する功績=安価な窒素肥料の大量生産に道を開く
 フリッツ・ハーバー(写真)――ドイツの化学者で、空中の窒素からアンモニアを合成する画期的な発明をした天才である。「空気からパンを作る」と評されたように、これによりアンモニアから窒素肥料を安価に大量生産することができ、世界の食糧生産を飛躍的に増加させた。彼は、この功績で後にノーベル化学賞を受けた。

 


 約1世紀前のこの発明により、飢餓で死ぬ者を減らした平和的功績もある。見方によってはノーベル平和賞にもふさわしいかもしれない。
 しかし高校の授業ではもちろん教えられなかったが、ハーバーには、ノーベル賞にふさわしくない消すに消せない汚点があった。

 

ユダヤ人であるために栄達目的でルター派新教に改宗
 まず彼は、ユダヤ人であった。19世紀末の帝政ドイツでも後のナチ時代ほど極端ではなかったが、反ユダヤ主義の風潮が世間でもアカデミズムの世界でも支配的だった。優秀だったが、ユダヤ人であるために彼は、満足な職を得られず、ドイツの主流であるルター派新教に改宗する。
 それからとんとん拍子で学界で地位を高め、同じユダヤ系のドイツ人化学者のクララ・イマーヴァールと結婚している。
 アンモニア合成法の成功で、さらに勢威を高めたハーバーは、1912年、創設されたカイザー・ヴィルヘルム物理化学・電気化学研究所(現マックス・プランク研究所)所長に就任した。

 

第一次大戦で毒ガス開発に心血注ぐ
 そこに第1次世界大戦が起こった。彼は、ここで研究所を挙げて化学兵器=毒ガス開発に励んだ。いかに彼が毒ガス開発に心血を注いだかは、自ら戦場の実験現場に赴いたことからも分かる。彼の主導して開発された毒ガスは、対フランス戦でも実戦に使われ、大きな効果をあげた(写真)。

 


 しかし毒ガス兵器という非人道的大量虐殺兵器の開発は、内外から厳しい批判も浴びるようになった。
 当時、研究所に在籍していた同じユダヤ系で相対性理論の提唱者の同僚アインシュタインから、「天才」とまで賞賛されたハーバーは、アインシュタインから「優れた頭脳を間違った目的で使っている」と批判されたし、後に原子核分裂を発見した同僚の物理学者オットー・ハーンに、「毒ガスの使用はハーグ条約に違反する」と批判された。

 

妻のクララは抗議の自殺
 これに対してハーバーは、「毒ガスを最初に使用したのはフランス軍だ」と反論し、さらに後のマンハッタン計画で原爆開発に従事し、実際にヒロシマ、ナガサキに投下したトルーマンや軍、一部科学者のように、「毒ガスを使って戦争を早く終わらせることは、多くの人命を救うことになる」と述べた。ハーバーの言った「毒ガス」を「原爆」と言い換えれば、それがトルーマンらの言い分になる。
 家庭も顧みず、毒ガス開発に熱中するハーバーは、妻のクララ(写真)にも諫められたが、顧みられることのないことに絶望したクララは、1915年5月2日、抗議のために自ら命を絶った。これがハーバーにとって、最も手痛い批判であったろう。

 

 

ナチに重用されず、逆に追われてドイツを捨てる
 戦後、ハーバーは、ノーベル化学賞を受賞するが、一時は戦犯に問われることを憂慮し、スイスに逃亡もしている。
 その後、ナチ時代、元ユダヤ人だったハーバーに、ナチからはお呼びはかからなかった。愛国者として、戦争協力にやぶさかでなかったにもかかわらず、だ。それどころか逆にユダヤ教を棄教しているにもかかわらず(したがってもうユダヤ人ではないはずだが)、ハーバーの身辺にナチの追及の手が延び、彼は祖国に裏切られた思いで、ドイツを捨てる。初めて深い後悔に苛まれて。

 

死後、ナチによりユダヤ人強制収容所で毒ガスにより大量虐殺に悪用
 そして彼が直接手を下したわけではないが、彼が兵器として開発した毒ガスの1つのチクロンBは、彼の同胞だったユダヤ人を強制収容所で大量虐殺するのに使われたのである。
 ハーバーにとって幸いだったのは、彼がこのことを見ることもなく、1934年1月に、後のイスラエルの建国されるパレスチナへ向かう途中のスイスのバーゼルで客死したことだ。
 アンモニアの合成法で僕の受けた入試にも出題されたハーバーは、おそらく最初に科学者の良心を問われた人物だったかもしれない。なお念のために注記しておくと、ハーバーの影の部分など、当時、10代の僕には知るよしもなかった。

 

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