今の若者の3割以上は、男女とも恋人がいない、とされる。その一端を、夏のある日、都内のホテルのプールで垣間見た(写真)。ホテルのプールだけに、清潔で、設備が充実しているが、利用料はバカ高い。
若い女性ばかりの夏のホテルのプール
そこに、夜間料金となる夕方6時過ぎともなると、どんどんと若い女性たちがやって来る。2人連れ、3人連れなのだが、すべて同性同士だ。男女カップルの2人組は、ほとんどいない。ビキニ姿の若い女性ばかりのプールは、いっぺんに華やいだが、若者男子たちは何をしているのか、と思った。彼女たちも、誘えないのか、と――。
ヒトが恋愛をするようになったのは10万年前以降
しかし生物学的に見れば、恋人がいない、というのは本来の姿に回帰した、とも言えなくも無い。
恋愛と呼ぶ行為は、野生の哺乳動物を見られない。人類史的に見ても、真の恋愛が登場したのは、ホモ・サピエンスが登場してから、それも10万年前頃に象徴化を駆使するようになってからだろう。「自我」が現れ、複雑な象徴を操れる認知能力が、恋愛の前提だからだ。
それまでは、現代社会では忌み嫌われる略奪婚や強姦まがいの生殖行為が普通だったと思われる。
なぜか?
恋愛という行動には、多大のコストがかかるからだ。
多大なコストのかかる恋愛
まず愛をはぐくむために、時間というコストがかかる。例えば結婚に至るまで交際に2年かかったとすれば、女性の生殖可能期間の約30年の15分の1を犠牲にすることになる。
さらに男性は、女性の気を惹くために時には多額のプレゼントを行う。これは、本来なら新家庭での子育てに投資される分だから、生物学的には無駄でしかない。しかし現代人では、プレゼント無しでは女性の関心すらひけないのだ。
プレゼント以外に、男性は女性を褒めそやし、女性もまた男性の魅力を称揚する。経済的負担は伴わないが、これも動物行動学ではコストである。
その意味では戦前的な「お見合い」婚は、次世代をつくるという点で、最小のコストだったと言える。
ゴールイン後の離婚――究極の無駄
そうしてやっとゴールインしても、カップルはなかなか子どもを作らない。経済的制約の強い現代社会も要因の1つだが、2人の愛を楽しみたい、という誘因も強い。次世代を作るという生物の基本からすれば、ありえない無駄である。
究極の無駄は、離婚、である。子作り前なら、男性にとって今までの投資が無駄になる。
子作り後なら、離婚は、男女とも自らの遺伝子の半分を受け継いだ子の生存に大きなリスクを背負い込むことになる。例えば母親が子どもを引き取ったとすれば、子は父親の体験を学ぶ機会を逸する。経済的にも、困窮する例が多い。
子の生存を脅かすカップルの破綻
今はほとんど地上から消え去ったが、遊動する狩猟採集民は、夫婦げんかをしてもカップル解体など、ない。男性は狩猟という形で子どもに肉を供給する役割を果たしていたから、男性の援助を受けなければ生存に大きな困難が伴うからだ。むろん血縁者で形成されるバンドという群れが支援はするけれども、父親のそれには及ばない。
父親を失った子どもは、飢餓や疾病に襲われれば、真っ先に死亡するだろう。男女とも、それまでの投資が無に帰す。
このことは、先史時代でも当たり前だった。
さしずめ現代人類社会は、恋愛が「生殖」と分離した人類史上初めての社会なのだ。だとすれば、先進諸国を悩ませる人口減は、やむをえないことなのか。
悩ましいところだ。
写真は、1965年制作の映画『ドクトル・ジバゴ』。革命ロシアを舞台にした永遠の恋愛映画でも、ジバゴとラーラは女の子をつくる。
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