ラリベラの聖救世主教会(写真)を眼前して、このような巨大な岩窟教会がいつ頃、建造されたのかはっきりしていないというのも、僕には解せない。しかも築造に要した期間も、動員されたパンパワーも分かっていない。
16世紀、ポルトガル司祭がヨーロッパに紹介、しかし……
この頃、エチオピアではゲーズ文字が成立している。しかしラリベラ岩窟教会群については記録がないらしい。
ヨーロッパに初めて紹介されたのは、16世紀初頭、ここを訪れたポルトガルのカトリック司祭によって、だった。むろん司祭も、度肝を抜かれたに違いない。
しかし険しいアビシニア高原の奥にあるラリベラは、それからヨーロッパで忘れられる。再び注目を集めるのは、それから300年もたった19世紀である。
以来、ラリベラの岩窟教会群の来歴については謎だらけなのだ。そもそもラリベラ王が建造したということすら伝承であって、考古学者には異論があるのだ。
窓、柱などすべて1枚岩を削り出し
僕たちは、聖救世主教会の周囲を歩いて観て回った。窓があるようだが、これは偽の窓で、形だけレリーフにしたもの(写真)。後に中に入ると、真っ暗だった。通風も悪い。なるほどダニがはびこるわけだ。
岩窟教会を支える柱も、石を積み上げたように成形されているが、これも模様を彫っただけで、周囲の岩を削り落として柱状の岩だけ残して造ったのだ。
ヨーロッパ人として初めてここを訪れたポルトガル人司祭が初めて見た時は、信じられなかったに違いない。
容積1.4万立方メートル(?)掘り抜く
前回、聖救世主教会の大きさは、長さ33.7メートル、奥行き23.5メートル、高さは11.5メートルと述べた。
教会内部もくり抜いて、実際に信者が礼拝できるように完全な教会に造っている。そしてこの教会を削り出すために、周りの岩を大量に掘り出して捨てている。すると、外回りだけで、おそらく長さ40メートル以上、幅も30メートル以上、深さ12メートル近くの巨大な穴を掘ったはずだ。容積は、およそ1万4000立方メートルにもなる。
歓喜で重労働に従事した民衆
それだけの岩を掘り出して外に運び出し、捨てている。よほどの宗教的情熱と建造人夫を組織する権力がなければ、できることではない。
ただ建造に動員された人夫は、苦役として、あるいは嫌々ながら重労働に従事されたのではない。おそらく彼らは、自らの手でこの地にエルサレムを再現するのだという宗教的情熱から歓喜に満ちて重労働に挑んだのだ。
昨年の今日の日記:「日本共産党よ、民主主義の友たらんと欲するなら党内独裁の道具である『民主集中制』をやめよ;クロンシュタット叛乱」