新聞のある記事写真に、目がとまった。写真は、大きな人物像だが、その台座に「陳独秀」とある(「陳」は簡体字)。簡体字が使われていることから、中国の石像であることが分かる。
 あのスターリニスト国家で、陳独秀の像があるとは――。ひときわの意外感であった。


陳独秀の故郷での珍しい「世論調査」
 25日付日経新聞朝刊の「地球回覧」のコラム記事に添えられた写真である(写真)。


地球回覧の記事

 この記者は、安徽省懐寧県の陳独秀の像が据えられ、その名も取られた「独秀公園」に赴いたのだ。ただし陳独秀そのものの取材に出かけたのではない。彼の故郷である懐寧県で実施された、スターリニスト国家では珍しい学者の世論調査の紹介で、現地を訪れたのである。
 ちなみに共産党は常に民意に添った無謬の党であり、したがって野党も批判的メディアは無用とするスターリン主義国家で、一般大衆を対象にした世論調査は、珍しい。設問によっては、共産党批判が噴き出しかねないからだ。なぜ陳独秀に意外感を覚えたかということと、彼の人物像と足跡の説明はひとまずおいて、まず記事の内容を簡単に紹介しておこう。


無作為抽出法ではないが
 それによると、中国人民大学の少壮国際政治学者が、一般中国人の対日意識を調べるため、昨年8月、安徽省懐寧県で「世論調査」を実施した。ここは、やや内陸部だが、もっと奥地ほど貧しくはないし、沿海部ほど豊かでもない。平均的中国人像を探るのに絶好、ということと後述の2つの理由で選ばれたようだ。
 ただし調査の手法は、西側の普通の世論調査で当たり前となっている無作為抽出法ではない。共産党一党独裁国家では、この方法が使えないからだ。
 この研究者は、妻の実家のある安徽省懐寧県に1カ月滞在し、知人の職場や学校を回って面接調査した。したがって無作為抽出法のような客観性は、担保されていない。
 それでもスターリニスト中国では珍しいので、この程度の「世論調査」でも論文になる。記事を書いた記者は、論文公刊前に概要を教えてもらい、記事にしている。


日本の第一の印象――「南京大虐殺」
 そのような限界はあっても、興味深い点はあった。
 まず「日本の第一印象は?」という設問に対し、最多だったのは「南京大虐殺」である。パーセンテージは書かれていないが、非常にネガティブな偏った印象である。他方、「日本の基本的印象」に対しては、「経済が発達している」とポジティブな答えだ。
 日本人にアメリカの第一印象を尋ねて、「原爆投下」と答える者は、極左分子を除けばあまりいないだろう。
 それなのに中国では研究者に異論の多い「南京大虐殺」がトップに来るのは、「日本を知る主な手段」の回答が教えてくれる。「歴史の教科書」と「テレビのニュース」の2つが、抜きん出ているという。


反日教育・反日宣伝が中国人に染み渡っている現実
 この「世論調査」で明らかになるのは、中国共産党の一方的な反日教育とテレビを通じた反日宣伝(何しろ毎日のように、パターン化された抗日戦争ドラマが放映されているのだから)が中国人に染み渡っていることだ。それが分かっただけでも、この「世論調査」には意義がある。
 さらにこの現実を見れば、「進歩的」メディアの説くような中国と中国人との善隣友好など、絵空事であることが分かる。そのために重要なのは、中国側に直ちに反日教育と反日宣伝をやめさせることであろう。


日本に留学、その後も何度も訪日した陳独秀
 さて、冒頭の陳独秀である(写真=壮年期と若き日の陳独秀)。


壮年期の陳独秀

若き日の陳独秀

 なぜ僕が「ひときわの意外感」を覚えたかというと、陳独秀が中国共産党からは否定的に評価されているからだ。
 石像の台座にも刻まれているように、陳独秀は1879年に生まれ、日中戦争中の1942年に四川省で寂しく没している。
 少年期、彼は早くから秀才と一目置かれ、1901年に清朝政府から日本に留学生として派遣されている。それを契機に、生涯で5度も日本を訪れている。周恩来も郭沫若も、当時の中国の秀才は、みんな東洋の先進国の日本に留学しているから、陳独秀がとりたてて親日的だったわけではない。


コミンテルンに責任転嫁され指導部から追放
 5度も訪日しただけで、共産党一党独裁国家から敵視されることはないが、その後の生き方が災いした。
 当時の多くの若い中国人知識人がそうだったように、若かった彼も日本や西欧列強から侵略される末期の清朝に悲憤慷慨し、1917年ロシア革命にも触発され、同志たちと1921年に中国共産党を創設し、初代総書記に就いている。ちなみに後の中国共産党の独裁者となり、「大躍進政策」と「文化大革命」で数千万人もの犠牲者を出す惨禍の直接の責任者である毛沢東は、この時、平党員として参加している。
 ところがその後、陳独秀はコミンテルン(第3インターナショナル)の誤った指導により中国共産党は壊滅的打撃を受け、コミンテルンから逆に責任をなすりつけられ、党の指導部から追放されてしまうのである。


トロツキーとの邂逅で党を除名
 そして1929年、コミンテルンを牛耳るスターリンと敵対するトロツキーの『中国革命論』に接し、コミンテルンの中国政策こそが誤っている、として、コミンテルンと中国共産党中央に激しい批判に加え、これがもとで中国共産党から「裏切り者のトロツキスト」として除名されてしまったのだ。
 スターリンのソ連はもちろん、どこの国でも共産党、すなわちスターリニスト党では「トロツキスト」は、資本家や外国支配者よりも悪質な最悪の敵である。したがって毛沢東の中国でも、陳独秀は党史からも中国史からも抹殺された。


党から否定されている「裏切り者」が石像の不思議
 その陳独秀の石像が、「独秀」名前の公園にある。
 それは、まさに意外そのものであった。
 だからといって、今の習近平政権で陳独秀が復権したわけではない。一度、「トロツキスト」の烙印が押されれば、スターリン主義国家では再評価されることはない。おそらく地元だけが、郷土の英雄をひっそりと顕彰したのだろう。


昨年の今日の日記:「始まった円安・ドル高の第3波、しかしこれが最終局面か」