タナ湖を見下ろすレストランで、テラピアの昼食を堪能した。
 食事を終え、1人、出入り口に向かうと、壁に架かった3人の並んだ肖像画に気がついた(写真)。エチオピアに来て、まだたった2日なのだが、中央の軍服の人物だけはすぐに分かった。ただ3人の取り合わせに、奇妙な感覚に襲われた。


3人の肖像画


強権支配で数十万人の反対派を処刑
 ちょうど現地ガイド氏がやってきた。真ん中の絵を指し、「メンギスツ?」と問うと、ヤー、とうなずき、「マルクス主義者だ」と笑って付け加えた。
 かつてエチオピアを暗黒支配したマルクス主義の軍事政権首班のメンギスツ・ハイレ・マリアムである。それまでエチオピアを統治していたハイレ=セラシエ皇帝を追い出し、共和制を敷き、大統領と与党・エチオピア労働者党書記長として、エチオピアをソ連の衛星国にし、あまつさえ破綻国家にした人物である。
 強権的・独裁統治を行い、特に1977年~1978年の「エチオピア赤色テロ」では、数十万の反対派を処刑した。この当たり、先達のスターリンや毛沢東、金日成、ポル・ポトそっくりである。


大飢饉で100万人近い餓死者、国名は北朝鮮そっくり
 この一方、同じ両年に隣国ソマリアとのオガデン戦争を戦い、その後はエリトリア解放戦線との内戦も戦い、この戦争に実質的に敗北して、エリトリアの独立を許してしまっている。
 この相次ぐ戦乱と国内での急進的社会主義化で、大干ばつに襲われたこともあり、1984年に100万人に近い餓死者も出した。大飢饉に見かねた国際社会が食糧支援をしたが、メンギスツと労働党は何一つ救済策を講じなかった。事実上、救済の丸投げである。
 このような破綻国家化まっしぐらの中、メンギスツは恥知らずにも1987年から1991年に国号を「エチオピア人民民主主義共和国(The People's Democratic Republic of Ethiopia)と名付けた。「エチオピア」の国名の代わりに「朝鮮」と入れれば、現在の北朝鮮の僭称「朝鮮民主主義人民共和国」とそっくりである。


メンギスツの隣に中興の祖のメレス・ゼナウィ
 このようにメンギスツは、いわばエチオピアを牢獄国家にしたあげくに破綻させた元凶だが、エチオピアにとって幸いだったのは、国内反政府勢力が統合したエチオピア人民革命民主戦線 (EPRDF)の軍事攻勢で、メンギスツを1991年にジンバブエに逃亡させたことである。
 現政権は、ジンバブエにメンギスツ引き渡しを要求し続けているが、同じ独裁者のロバート・ムガベが引き渡しを拒み続けている。
 メンギスツを追放したそのEPRDFの指導者が、メンギスツの左隣にかかる現エチオピアの中興の祖の故メレス・ゼナウィ元首相なのだ。


メレス・ゼナウィなければ、経済離陸できず
 メレス・ゼナウィ首相も独裁的だったが、対外的・国内的には自由化を進め、西側からの資本導入を図った。
 エチオピアが今日、世界最貧国の一員になお留まっているにもかかわらず、年率10%の経済成長を達成できているのは、メレス・ゼナウィ元首相の功績である。彼とEPRDFがいなければ、僕もタナ湖畔のレストランでこの絵を観ていなかっただろう。
 そういう経緯があるので、なぜメンギスツとメレス・ゼナウィ元首相が並んでいるのか、不可思議なのである。ちなみにメンギスツは、この地方の出身ではない。


メネリク2世の肖像も
 メンギスツを真ん中に、メレス・ゼナウィ元首相の反対側が、第二次大戦中にイタリアのエチオピア侵略を打ち破った救国の名君とされたメネリク2世である。
 左右の人物選択には異論はないけれど、まさに「??」の肖像画であった。
 なおこの絵については、本年2月24日付日記:「エチオピア紀行(17):軍人が幅をきかせるが、かつてはマルクス主義軍事政権が支配したトンデモ国家だったことを思えば」でも触れた。


青ナイルの滝に行く途中の農村風景

青ナイルの滝に行く途中の農村風景2

 また上の写真は、高成長を続けているが、なお貧しいエチオピア農村と民家。青ナイルの滝の観望の途中で観たもの。


昨年の今日の日記:「NPT再検討会議の決裂で密かに笑ったスターリニスト中国と強権ロシア」