徳川幕府の鎖国とキリシタン禁教が揺るがぬ体制として安定化した元禄期、5代将軍綱吉の治世の末期に、あえて禁教下の日本に、キリスト教布教のために御法度の密入国をしたイタリア人宣教師がいた。
 恥ずかしながら、5日付の各紙の記事を読むまでイタリア人宣教師ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッチ司祭のことを知らなかった。


切支丹屋敷の墓から出土の長身の中年男性をシドッチ師と特定
 2014年7月にマンション建設の伴って東京都文京区小日向の旧「切支丹屋敷」跡の発掘調査で、3基の墓と人骨が出土した。この墓から出土した3体の遺骨の調査結果が、文京区教委から発表された。
 国立科学博物館によるDNA鑑定と骨の形態分析で、うち1体は「170センチ超のイタリア人中年男性」と判明した(写真)。


シドッチ師の遺体

 屋敷の記録に残るイタリア人は2人しかいないが、文献から175.5~178.5センチの長身で享年47歳と分かっているシドッチ師の特徴とも一致したことから、同師と特定された。禁教下の宣教師と見られる人骨で個人が特定されるのは初めだ。


身の回りの世話をした老夫婦を受洗させ、地下牢へ
 後の2体は、シドッチ師の身の回りの世話をし、後に同師から感化され、キリシタンになった長助・はるという老夫婦だと見られる。
 長助・はるの老夫婦は、木製の十字架を身に付けているのを役人に見つかり、捕縛の上、入牢した。2人とともに、それまで屋敷内では自由に動けたシドッチ師も地下牢に移され、ほどなく3人とも衰弱・獄死した。


受け入れ体制さえない禁教下の日本に
 シドッチ師は、シチリアの出身で、カトリック司祭として活動していたが、東アジアに派遣された宣教師らの報告で、日本でカトリック宣教師や日本人のキリシタン信徒の殉教を知り、あえて宣教のために日本への渡航を決意、当時の教皇の許しを得て、マニラに向かった。
 マニラで4年間、宣教師として活動、現地の宣教師同僚やバチカンから功績を認められた。その間、日本への渡航の機会を探っていた。
 そしてついに希望が叶い、1708年8月に鎖国下の日本へ船出する。密入国先の日本の受け入れ体制さえない中での出航であった。


変装していたが日本語を話せずに
 10月、頭を月代に剃り、和服に大小2本差しという侍の姿に変装して首尾よく屋久島に上陸したが(下の上の写真真=同師の上陸時の想像図)、日本語もしゃべれないことや異風から、すぐに島の農民に見つかり、役人に突き出され、長崎へと送られた(下の下の写真=シドッチ師上陸300年に際して)。

上陸したシドッチ師(想像図)

シドッチ師記念碑

 翌1709年、シドッチ師は江戸に護送され、時の幕政の実力者で儒学者であった新井白石(写真)から直接、尋問を受けた。白石はシドッチ師の人格と学識に感銘を受け、敬意を持って接したという。


新井白石

 シドッチ師との4回の尋問(対話)で西欧への広範な知識を得た白石は『西洋紀聞』などを著した。後に8代将軍吉宗は、これを読んで、洋書の輸入を解禁したと言われる。


軟禁されたが、破格の厚遇で
 結局、白石は幕閣にシドッチ師の本国送還を具申したが、それは容れられず、同師を茗荷谷(現・文京区小日向)にあった切支丹屋敷へ幽閉することに決定した。
 幕府は、シドッチ師を軟禁に処したが、囚人としてでなく、尊厳ある宗教者として、二十両五人扶持という破格の待遇で遇した。かつてのバテレンを「転ばせた(転向させた)」凄惨な拷問を受けることもなかった。屋敷の外に出ることはかなわなかったが、屋敷内では牢にも入れられず、自由に動けた。
 もはやキリシタンの脅威はないという幕府の治政の自信があったろうが、同時に白石の献策もあって、同師の信念と勇気に敬意を表した結果なのだろう。


火あぶりや磔刑は受けず入牢
 それでも身の回りを世話した日本人老夫婦をキリシタンに導いたことは、幕府とすれば国法に反する許せない罪状だった。ただ激しいキリシタン弾圧期の火あぶりの刑や磔の刑にせず、牢に入れるだけに留めたことに、元禄期の幕府の治政の成熟が見える。
 周囲の反対を押し切り、神の救済を待ち望む人々に会うために、布教の見込みのほとんどない日本に国禁を犯して密入国したシドッチ師の信念と勇気、そして信仰に無私の生を捧げたことに、僕は深い尊敬の念を覚え、感動したのである。


昨年の今日の日記:「ポーランド紀行:女性像でマリア・コノプツニカを初めて知る」