バルト海に目をやると、海の彼方は相変わらず霧にかかっている(写真)。海水温がかなり低いのだろう。
僕は、すべての想いを残して集合場所の観覧車手前の広場に向かう(写真)。
海霧は、ますます濃くなり、陸地目がけて押し寄せているようだ(写真)。我々が立ち去った後、ヘルシンキの波止場まで霧に包まれるのだろうか。
これで1年半もかけたポーランド・バルト3国紀行は終わります。
憧れのロシア行を計画していた
旅は、今や2年前となった2014年7月下旬の10日間のツアーだった。ただ最初は、この4国に行く予定ではなかった。実は、14年年初には、この時期にロシア旅行を計画していたのだ。
ロシアは僕が若い頃、青春の時に没頭した国だった。ロシア革命に深く魅入られ、寝る間も惜しんで、時には24時間一歩も外出せず、ロシア革命の文献を読みまくった。極貧の少年時代を過ごしたから、共産主義と革命に理想を見出していた。
しかし、学びが進みにつれ、現実はその理想とはほど遠いものだったことを知る。
一時はロシア史研究者の夢を見た
なぜ理想と食い違ったのか、それを極めたくて、一時はロシア史研究の専門家になろうか、とも考えた。しかし思い留まる。
もうその時は、20代半ば近くに差し掛かる社会人となっていて、再出発に遅すぎた。研究者目指しても、大学にポストを得られるともとうてい思えなかった。
しかしロシアへの想い、革命の主舞台となったサンクトペテルブルクへの想いは、その後もずっと抱き続けた。
ただ、ロシアへの旅はかなわなかった。当時は共産党支配のソ連時代だった。自由な街歩きなど、望むべくもなかった。
スターリン・ソ連の傷跡探し
そして青春の夢の舞台をやっと訪れようかとなった2014年3月、プーチンのロシアは、クリミア半島を強奪した。帝国主義時代を思わせるようなこの無法に抗議して、僕は年の初めに計画していたロシアのサンクトペテルブルク旅行をやめた。
代わって、かつてスターリンのソ連に支配された東欧の衛星国のポーランドとソ連領に組み入れられていたバルト3国を訪れることにしたのである。
行く先々で、ソ連支配期の傷跡を見つけた。
しかしほとんどは、その苦い記憶が消し去られていた。それもまた、再出発をした国として当然かもしれない
旅行先、国名を告げると「……」
ポーランド・バルト3国の旅以来、今日からほぼ1年半ぶりに海外に遊びに行く。
休暇を取るために、理由を言わねばならず、海外旅行に行く、と告げたら、ほぼ異口同音に、いいですねぇ、という羨ましげな反応が返って来た。
で、次に「どこに行くんですか?」というお決まりの問い。その国名を挙げると、相手からは「……」と、次の言葉が出てこない。二の句をつげない、というやつだ。
おそらくあまりにも突拍子もなく、想定外なのだろう。
行くのは、ずっと行きたかった国
そんな意外な国に向けて、今日、発つ。
ただ、中東のようなテロが日常茶飯事の国ではない。ずっと行きたかった国で、たまたまツアー催行があったので、滅多にない機会、と参加することにしたのだ。
帰国は、今月末、そこで2月初めまで、日記は休載します。
昨年の今日の日記:「総合商社伊藤忠商事が中国の国有企業に6000億円の巨額投資、どぶに大金を捨てるのか?;追記 5年国債ついにマイナス金利」
昨年の明日の日記:「後藤氏ら2人の人質は、身代金を払わずとも解放される? 希望的観測を込めての期待」
昨年の明後日の日記:「2017年解散・総選挙を見据える『株価が高いと自民党勝利』の分析」
昨年の25日の日記:「ミャンマーに群がるスターリニスト中国のヒスイ買い漁りと妖しい魅力を放つ緑の石」
昨年の26日の日記:「イスラム国の日本人解放の新たな要求、ヨルダンの女テロリスト解放こそ真の目的」
昨年の27日の日記:「やっぱり出た! イスラム国テロリストに迎合するお門違いの官邸前デモの愚」
昨年の28日の日記:「ポーランド紀行:早朝のクラクフ旧市街を散策;ポーランド独立意識を育んだアダム・ミツキェヴィッチ」
昨年の29日の日記:「ヨルダンの重要決断、自国民パイロット解放を条件に女テロリスト釈放の用意、後藤氏の『スポークスマン』役の終わり」
昨年の30日の日記:「な、なんと、朝鮮総連本部ビルに朝鮮総連が居座る!?、マルナカから極めて不明朗な転売が明るみに」
昨年の31日の日記:「後藤氏人質でヨルダンの政情不安を誘うイスラム国の引き延ばし戦術」
昨年の2月1日の日記:「朝鮮総連本部ビルの転売に介在した元自民党参院議員の山内俊夫と朝鮮総連に強く抗議」