ワルシャワ蜂起博物館は構内に入っただけで入館は断念したが、そこからかなり離れた、クラシンスキ公園の東に、「ワルシャワ蜂起記念碑」があった。
是非にと懇望して立ち寄る
その存在は、最初は知らなかった。日本から付いてきてくれた気の利いた添乗員氏が、旧市街の世界遺産「ワルシャワ歴史地区」を案内した後、クラシンスキ公園に面した道路に停車して我々を待っていたバスに向かう手前の交差点で、その存在を教えてくれた。
交差点からは、記念碑は見えない。ガラス張りのモダンなポーランド最高裁判所の陰になっている。ぜひ観たい、とお願いして、添乗員氏はリブパブリをその場まで案内してくれることになった。他の参加者は、英語スピーカーの現地ガイド氏がバスまで付いていくことになった。
記念碑は互いに色合いの異なる2基
ここは、不親切にもガイドブックにも解説が載っていない。
ちょっとした広場に、2基、巨大な兵士群像と3人像が立っていた。兵士群像は、瓦礫の陰から勇ましく突撃するレジスタンス兵士たちだ(写真下の上)。
もう1基は、もの悲しい(写真上の下)。説明を読むまでもなく(ポーランド語だから読んでも分からない)、3人は、ドイツ兵に捕らえられた跪くレジスタンス兵士と、その兵士の処刑に最後のお祈りをするカトリック司祭であろう。
名所・旧跡群から外れ、目立たない所に設置されているから、わずかな外国人が2基の碑を観ている。おそらくそれは、制作年に関係があるのではないか。
記念碑は、「ワルシャワ蜂起」45周年の1989年に造られたという。まだポーランド民主化前で、ヤルゼルスキ共産政権の時である。
ソ連と旧体制指導部には都合の悪い記念碑
ヤルゼルスキ大統領(当時)は、共産主義者ではあったが、ゴリゴリのスターリニストではなく、むしろリベラルで自主労組「連帯」には寛容な指導者であった(14年5月27日付日記:「南部アフリカ周遊:峡谷の転回点を観望できる展望台へ;追記 ポーランド共産政権最後の指導者、ヤルゼルスキ氏死去」を参照)。ポーランド民主化への隠れた功績者であったと言えるかもしれない。
だからこそ、ヤルゼルスキ氏はこの記念碑建造を許したのだ。
前2回の日記でも述べたが、スターリンのソ連はワルシャワ蜂起を見殺しにし、ナチ・ドイツに非共産党派の在ロンドンのポーランド亡命政権潰しを謀った。
だからソ連にブレジネフが君臨していた時のギエレクやゴムルカなどのポーランド党指導部なら、決して建造は認められなかったはずなのだ。
写真を撮るだけだったのは悔やまれるが
それでもヤルゼルスキ氏は、多くの人の訪れる旧市街の一角に据えることには慎重になったのだろう。反対派やソ連に、言いがかりをつけられない予防であったかもしれない。
リブパブリは、他の参加者が待っているため、ほとんど写真を撮るだけでその場を後にせざるをえなかった。ワルシャワ蜂起の犠牲者への祈りを捧げる時間さえなかったのが、悔やまれる。
それでも、ワルシャワ蜂起にゆかりのある事物を訪ねられたのはよかった。
記念碑のすぐ近くにあった教会(写真)は、何という名なのか分からないが、多くの犠牲者と記念碑を見守っているのだろうか。
昨年の今日の日記:「メキシコ周遊:総督の宮殿と総身のジャガー像、そして亀の家へ;ジャンル=紀行;追記:TPP」