ずっと年賀状だけは交換し、時には旅の写真をメールで送り合った方が亡くなっていた。昨日、寒中お見舞いの葉書が来た。


40歳代半ばの若さに散る
 その方の姓が見え、お母様か肉親のどなたかが亡くなったため、年始の挨拶の欠礼を詫びる葉書かと思って、ペン書きの短い文章を読んで息を飲んだ。しばし呆然、とした。
 なんと、その方自身が昨年2月に事故で亡くなれていた。お母様からの欠礼のお知らせであった。
 まだ40歳代半ばで、「死」など想像すらできない年齢だ。その方が亡くなっていたことも衝撃的だったが、もっとショックだったのは、それを自分が1年近くも知らなかったことである。
 きちんと1月1日に、印刷文に簡単な消息をペン書きした賀状を下さっていた。今年だけは、1日に届かず、こちらが出したものを見たはずの3日、4日になっても賀状が届かなかった。それが不審だった。


美しい文章のエッセーを書く人
 去る2月11日、東北で事故で亡くなられていた。年に何度も訪ねたこよなく愛した温泉地で、という。
 夜、沈鬱な思いでご自宅に電話すると、お母様ご自身が出られた。月日がたっているので、子に先立たれた傷心も少しは安らいだのか、意外と明るい声でホッとした。
 ただ霊前へのお焼香は、丁重に辞退された。最後のお別れもできないことに、無念を思った。
 その方とは、実は1度しかお会いしたことがない。ずっとブログのエッセイとメールでの交流だった。
 美しい文章で独自の死生観、宗教観、社会批評の達意のエッセーを書く方で、何度も心が洗われる思いがしたことを覚えている。
 ご自身、大学時代、作家を目指したことがあると言っていた。そのため大学院に残るつもりが、「世間を見てきなさい」という指導教授の助言で、広告会社に勤めた。


いつか小説を読みたかった
 その後、鬱で何年か病臥し、回復した後、カトリック系幼稚園の庶務に就職された。
 いつかその方の作家デビューを見られると期待していたが、永遠にかなわないことになった。
 いくつかのエッセーが、まだネットに残っている。あらためてアクセスしてみると、そのサイトの最後のエッセー投稿は昨年1月末で終わり、以来、更新されていなかった。この2週間後に、この世の人ではなくなっていたのだ。思えば、その時に気がつくべきだった。
 死者は、生物学的な生を終えても、バーチャルの世界ではいつまでも生き続けている。少なくともこのサイトのサービスが終わるまで。
 間もなくその方の命日がめぐってくる。
 その時までに、できればそれをダウンロードし、残されたお母様にプリントを送って差し上げたい、と考えている。


山が鳴る


昨年の今日の日記:「西アフリカ、マリで砂漠のテロ勢力にフランス軍が軍事介入とアルジェリア南部での日本人らの拉致」