今年は午(うま)年。しかしウマほど野生、家畜いずれでも、近年に急激に存在感の低下した動物はいないだろう。


かつては軍用、農耕用として人類に最重要の家畜だったウマ
 かつては軍用として、ウマは戦争に不可欠かつ最重要の家畜だった。騎兵用だけでなく、荷運び用の役畜として、軍馬の質と量は戦争の勝敗を左右した。
 例えば、一時は現在のハンガリー近くまでのユーラシアに広大な版図を築いたモンゴル族の大帝国「元」は、ウマ無くしてあり得なかった。
 近代戦でも軍馬の重要性は変わらなかったから、各国とも軍馬育成と改良に注力したのももっともだった。だが、それも第1次世界大戦の頃までだろうか。その後、自動車というモータリゼーションの発展で、戦争におけるウマの役割は先進国でほとんどゼロに近くなる。
 農耕馬としてのウマの役割も、機械化の進展で先進国では存在感をなくした。耕耘機が普及する前、中農以上の農家の畜舎には、柱とも杖とも頼む愛馬が飼育されていたものだ。農耕を始めた人類にとって、馬は役畜として最重要の家畜だったのだ。


家畜馬の大凋落と反比例して繁栄したウシとのこの違い!
 まだ家畜馬が使役されているのは、一部地域の途上国に留まる。
 それに比べて、家畜ウシの繁栄ぶりはどうだろう。家畜馬としての重要性の急低下に反比例するかのように、乳用、食肉用としての意義が急上昇し、今や世界各地でトータルで10数億頭も飼育されている。家畜ウシと比べれば、飼育されるウマの数は2桁も少ない。
 それでも野生のウマに比べれば、家畜ウマはまだマシだ。競走馬として高値で取引されるし、モンゴルなどでは民族食として馬乳やそれを発酵させたクミスが、今も広く利用されているからだ。


家畜化は遅かったが、人に家畜化されなければ絶滅していたかも
 ウマが人類に家畜化されたのは、家畜動物としては遅い方だ。おそらく6000年前頃、中央アジアの草原で家畜化された。ウシの家畜化に遅れること約3000年、ヤギとヒツジに比べれば6000年も遅かった。
 人類と出逢い、人に家畜化されたことは、種としてウマを見れば、幸運だったと言えるだろう。ウシ科が野生状態でも繁栄しているのに比べれば、種の数でも個体数でもウマ科は、傾向的に衰微していたからだ。研究者によると、もし家畜化されていなければウマは絶滅していたかもしれない、とさえ言われる。
 実際、家畜化されなかった野生馬は、現生ではただ1種しか残っていない。しかも1度は、絶滅の憂き目まで見ている。
 それが、プルジェヴァルスキー馬、すなわち「モウコノウマ」である(写真)。ちなみに「モウコノウマ」とは、漢字で表記すれば「蒙古野馬」となる。「蒙古の馬」ではないので、念のため。


モウコノウマ

モウコノウマ2

もう1つのウマ、プルジェヴァルスキー馬(モウコノウマ)
 その名のとおり、野生馬であるプルジェヴァルスキー馬は、1879年にロシアの探検家ニコライ・プルジェヴァルスキーによってモンゴル草原で発見された。20世紀までもう少しという頃まで発見されなかったのは、その頃には家畜の放牧馬に押され、生息域を著しく狭められていたからで、個体数も少なかった。
 そのため発見からたった85年の1966年を最後に、野生のプルジェヴァルスキー馬は確認されなくなった。この頃には絶滅した、と見られる。
 ただ幸いだったのは、プルジェヴァルスキー馬は、絶滅前に多数が捕獲され、世界中の動物園で広く飼育されていたことだ。それが動物園という狭い場で人の手で増やされ、その個体が集められ、故郷のモンゴルに放たれ、再野生化された。


モウコノウマの個体数はやっと1000頭余
 それでも再野生化された個体群数は、現在でもモンゴルのホスタイ国立公園で300頭ほど、世界中の動物園で飼育されているものも含めても、合計でやっと1000頭ちょっとしかいない。
 ――ここまで読んできた読者の中には、ウマなど競馬場に行けばいっぱいいるではないか、と異議を唱える方もいるかもしれないが、競走馬などの家畜馬と野生馬とは亜種レベルで異なる。
 遺伝子の解析では、例えばミトコンドリアDNAの解析では、プルジェヴァルスキー馬(以後、正式な和名であるモウコノウマを用いる)と競走馬を含めた家畜馬とは、今から16万年前頃に分岐したと推定されている。全ゲノムでの解析ではもう少し新しく、3万8000年~7万2000年前頃には両者は別れたという。


モウコノウマは遺伝的に家畜馬とは異なる
 つまり家畜馬の祖先とモウコノウマとは、遅くとも5万年前頃には遺伝的に分離・隔離さていたということだ。これがもっと、おそらく50万年間も続けば、完全な別種となっていただろう。
 この分岐は、染色体数でも明らかで、モウコノウマの染色体の数は、競走馬を含めた家畜馬より2本多い66本である。ただし両者を人工的に交配させ、仔を産ませると、生殖能力があるので、まだ別種とまでは言えない。
 競走馬を含めた家畜馬の祖先とモウコノウマとが遺伝的に隔離されたのは、おそらく生態域を異にしていたからに違いない。モウコノウマの方が、ずっと辺境に追いやられていたのだろう。そのためモウコノウマは、19世紀後半にプルジェヴァルスキーに発見されるまで生き残れた。


性質が荒く、家畜化に不向き
 哀れは、家畜馬の祖先の方で、こちらは放牧馬によって草原の採食場を奪われ、やがて絶滅してしまった。ただし遺伝子としては、役畜馬・軍馬として脈々と受け継がれたから、遺伝子から見れば成功だったのだろう。
 さてモウコノウマは、なぜ人に家畜化されなかったのだろうか。その荒い性質が人による家畜化を断念させたのだろう。家畜馬も、オスは去勢しないと性質が荒いが、モウコノウマの方はとうてい人に馴れなかったほどだ。ウマの牧畜民であるモンゴル族も、モウコノウマの家畜化には成功しなかった。
 野生状態では、再野生化した家畜馬と同様に、モウコノウマも1頭のオスを中心に複数のメスと仔によるハーレムをつくる。体高は、サラブレッドよりもずっと低く、成体で1.4メートルくらいしかない。脚もまた、短い。家畜化には障害が多い。


もともとウマには縞模様があったのかも
 注目すべきは、背中と脚の部分に縞模様があり、アフリカのサバンナに棲息するシマウマと近縁であることを物語っている。モウコノウマ(プルジェヴァルスキー馬)の発見の前後に絶滅した南アフリカのウマ科クアッガを彷彿させる(13年11月27日付日記:「南部アフリカ周遊:ホテル近くの路上でホームレスを見て、珍獣クアッガの模型から進化を考える;コーラン、DNA、遺伝的浮動、絶滅」を参照)。
 このことから見ると、ウマ科とはそもそもサバンナで迷彩色として機能する縞模様があったもの、と考えるのが、妥当だろう。家畜化で、人の保護下に入り、捕食動物から免れるようになり、縞模様を喪失したのかもしれない。
 ついでながら宮崎県串間市の都井岬に生息し、野生馬として国の天然記念物になっている御崎馬(岬馬)は、江戸時代の高鍋藩が軍用馬として飼育した家畜馬が再野生化したもので、モウコノウマとは全く関係がない。


昨年の今日の日記:「『海のモンスター』ダイオウイカを動画でキャッチ!」