ステルクフォンテイン洞窟出口近くで、ブルームの胸像の写真を撮り終えて、ふと左上方向に視線を向けると、開口部に登っていける。


発掘区も駆け抜け
 リブパブリは、ガイド氏の説明を聞いている一行から離れ、開口部に登っていった(写真=開口部上から洞内を見下ろす)。


ステルクフォンテイン開口部

 すると、金網の柵の向こうに以前に写真で見たことのあるステルクフォンテイン洞窟の発掘区が広がっている!
 夢中で写真に撮ったが、なんのことはない、後に我々はそこに訪れるのであった(写真)。


ステルクフォンテイン発掘区

 発掘区に回っても、時間が押しているせいなのか、説明もほとんどない。どんどん我々のグループは木道を進んでいく。
 一行に遅れないように、ひたすら走ることになる。様々な説明板も、読んでいる時間がない。ともかくもデジカメで撮るのが精一杯だ。


狭い資料館をちょっとだけ覗く
 こんな調子で発掘区を見渡せる見学橋も、次の「人類の揺りかご」の遺跡群を見渡せるポイントも、一行はさっさと通過し、いちいち写真を撮るリブパブリは、一行の後塵を拝することになる。
 ここも、せめて1時間は観察したかったポイントだ。そこを、風のように通過するとは――。
 最後になって、息せき切って一行に追いついたら、古人類学にわりと知識の深い、かの腹の出た日本人現地ガイド氏が、小規模な資料館・遺物収蔵庫風の建物の前で立っていた(写真=ビジターセンターから見た同建物)。


資料館

 それまで専門的な質問をしていたので、普通の素人ではないと思ったのか、彼はリブパブリを狭い資料館に招く。


セディバの少年頭蓋の模型を実見
 そこに約198万年前のアウストラロピテクス・セディバの少年頭蓋MH1(マラパ・ホミニン1号)の模型が、剥き出しになって展示されていた。出土地のマラパ洞窟は、ここからさほど遠くない。資料館に置かれていても不思議はないが、それは思いがけない遭遇だった。
 写真では見たことはあるが、模型とはいえ、実物大立体物を見たのは初めてだ(写真下)。撮影許可を受けて撮影したが、もう一行は誰もいない。いつまでも観察しているわけにはいかない。MH1頭蓋模型を正面から撮影する知恵も働かず、あたふたして元のビジターセンターに戻ったのであった。


セディバ1号


スワルトクランスを遠望
 ビジターセンターは、広大な草原にポツンと建てられた建物だ。見通しが利く。くだんのガイド氏に、もっと年代の新しいスワルトクランス洞窟はどこか、と尋ねると、道路を挟んだ小高い丘を指した。ステルクフォンテイン洞窟から谷を挟んで1キロほどしか離れていないと聞いていたが、確かにさほど遠くはない。
 丘の斜面にわずかに道が見える。あの行き着いた先の木の生えた辺りがスワルトクランス洞窟だという(写真下)。スワルトクランス洞窟は、戦前にやはりロバート・ブルームが踏査し、ここから頑丈型猿人(パラントロプス・ロブストス)化石を見つけている。


スワルトクランス遠望

 第2次世界大戦後も、ステルクフォンテイン洞窟の発掘と並行してスワルトクランスの調査を進める。そして頑丈型猿人化石を追加発見するとともに、ここから南ア初の早期ホモ属(テラントロプスと称されるが、おそらくは南ア型のホモ・エレクトス)頭蓋も発見する。


スワルトクランス訪問はできず
 ブルームのリタイア後、しばらくは放置されていたが、半世紀ほど前、トランスヴァール博物館のC.K.ブレインの手で発掘調査され、ここから南アの苦灰岩洞窟の複雑な層位などが明らかにされていった。
 スワルトクランスも、そのように重要な洞窟である。
 時間がありさえすれば、歩いても簡単に行けそうだ。ただし内部は非公開らしい。せめて外からとも思うが、それも時間的に許されないのは、ツアーであれば仕方がない。我々は、まだ次の訪問地、ライオン・パークがあるのである。
 それでも宿願だったステルクフォンテイン洞窟を訪れられたことは、今ツアーの最高の感激だった。


昨年の今日の日記:「作家、渡辺淳一の『私の履歴書』、ついに運命の天才少女画家、加清純子登場」