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 不毛の地、デス・ヴァレーも、かつては一攫千金を夢見る男たちが殺到するゴールドラッシュに洗われたことがある。今から100年ほど前のことだが、しかしその繁栄の期間は短く、ほどなくこの地は貴金属鉱床としては見捨てられた。

砂漠の中の鉱山と石鹸工場跡
 それでもバッドウォーターの塩原に象徴される元鹹水湖跡には、有用鉱物があった。ホウ砂(borax)である。元鹹水湖跡の塩分層から地表に浸み出したもので、これから作るホウ酸は水溶液では弱アルカリ性となり、洗浄作用、消毒作用がある。そこで、かつては粒状石鹸の原料として重要だった。デス・ヴァレーは、19世紀末に、一時、世界最大のホウ砂産地となり、活況を呈したことがある。
 我々デス・ヴァレー国立公園のミニバンツアーの最後のポイントは、かつてのホウ砂の採鉱・精錬跡、ハーモニー・ボラックス・ワークスである。宿泊施設やレストランのあるファーネス・クリーク・ランチ(ここで我々はバフェのランチをとった)の近くの、草がまばらにしか生えていない荒涼とした斜面に、産業遺跡として保存整備されていた(写真上)。
 今では想像もつかないが、19世紀半ばに初めて露天掘り鉱山が開かれた時、ホウ砂は貴重なものだったらしい。しかし鉱石をそのまま運ぶには、デス・ヴァレーはアクセスが悪すぎた。そこで鉱石を精錬し、それを原料とする石鹸工場まで建設され、それが1888年まで操業していたという。
 精錬すれば、ホウ砂の重量はずっと軽くなる。それでもここは、人跡未踏の地だ。道路もない。そこで、トウェンティー・ミュール(ラバ)・チームという18頭のラバと2頭のウマで牽引する計20頭立て馬車が編成された。ラバは頑強・従順なので、これが主力となった。
 実物はファーネス・クリーク・ランチの街中に展示されていたし(写真中=1865年に使われていたワゴン・トレイン)、たぶんレプリカと思われる馬車が、ハーモニー・ボラックス・ワークス現場にも復元展示されていた(写真下=右は廃鉱跡)。雨がほとんど降らないから、いずれも露天での展示である。

24トンの荷を運んだトウェンティ・ミュール・チーム
 この2台のワゴンとタンク1台に正味24トン(総重量36トン余)のホウ砂と石鹸が積まれ、最も近い鉄道駅のあるモハーベまで、165マイルの山道を10日かけて運ばれたという。途中のパナミント山脈の峠は、とうてい緩やかではないが、俊敏なウマが先導し、屈強なラバが牽引して乗り越えていった。ホウ砂が貴重だった証しだろう。
 例によって、見学は駆け足で、30分足らずで、我々ミニバンツアーは、最後のポイントのダンテス・ビューの展望台に向かった。
 ここからは、バッドウォーターの白い塩原が眼下に一望できるはずだった。
 同行者のアベック連は、この頃には砂漠の景観にもう食傷気味だったが、私はひそかに期待していた。
 ところが、である。わざわざ脇道にそれてダンテス・ビューへの道に入り、ややしばらく走った先は、道路に木柵が組まれ、クローズドとなっていたのだ。運転手兼ガイドのOさんによると、途中の山道で崖崩れの恐れのある個所があり、そのための閉鎖だろうという。
 アーティスト・パレットの閉鎖、そして最後のダンテス・ビューの閉鎖と、2つ見逃したわけだが、それも自然のままをできるだけ残す国立公園の方針とあれば、やむをえないだろう。
 我々は、朝に本来は通るはずだった経路をとって、ラスベガス帰着の途へついたのである。