セカンドシーズン | 観客席から見たカーリング 2nd Season

ちょっと、私的なことを書かせて頂いてもよいでしょうか。


このブログは「カーリングファンになろうよ」活動の一端として再開したものですが、
私、川合圭介自身が別の人間になったわけではなく、
あの頃と大きく違ったことができるか、というと、そうではないようです。

それなのに、あの頃と同じこともできなくなってしまっている。



今回、軽井沢国際に行ってみて感じたこと。

私のカーリングに対する根源的な感情の部分は何も変わっていないです。
カーリングって、おもしろいです。

ですが、その上にあの頃にはなかった一枚の層ができてしまっていました。
前回に「サビついた」「フィルターがかかったよう」と書いたところです。

ファンとして純粋にカーリングを楽しむためには、余計な情報を知りすぎたと思います。

あの頃のように、好きだから、楽しいから、だけではない自分。


端的に言えば、言えないこと、がある。


感じ方に、バイアスがかかる。
見たいものとは異なるものを見ようとする。


自分が本当に求めるものを心の端に置いて、
自分で感じたものを、そのままストレートに出せず、
くねくねと当たり障りのない言い方で迂回しながら、綺麗な言葉やカッコ良さげなセリフを並べ、
なんだか分かった風な素人っぽくないポイントを取り上げて話題にして、
それに何の意義があるのでしょう。

それなら、私でない人がやれば、言えばいいはず。
だってそれは私の感じたものではないからです。
それは私の意見ではないからです。

私が私の感じたものを言わないのなら、
私が言う意義も価値も、なにもない。

私は、自分自身で本当に、芯からそう思うことでなければ、言いたくないし、言えない。

それは私にとって、何の価値もないです。

誰かの意見なら、誰かが言えばいいからです。


これを見ている人は、それを望んでいるのでしょうか。
これを読む人は、私の本心から出たものでない文章を読みたいと思い、
そういったものに何かを感じてくださるのでしょうか。

操作され、コントロールされたものが、それを読む人に伝わるとは思えない。

そんなものが、人の心に届くとは思えないんです。


何か別のことを考え、誰かのために自分の本当の気持ちと違うことを言うくらいなら、
ブログなんかやらずに黙っていればいいじゃないかと思います。

このブログの一番最初に、唯一、残してある「誰かに教えられたことでなく、自分で考え、自分で見つけること」というものではないことを言う。

私はまたカーリングに嘘をつかなくてはならないのか。



土曜、軽井沢から茅野へ行って、
明けて日曜、帰ってきました。

そこでは、私に話をしてくださる人が複数いました。

慎重に言葉を選んで、私に伝えようとしてくれました。

ありがたいです。
あぁそうなのかぁ、と思ったり、
でもそれはなぁ、と思ったりしました。

でも、ふたりとも私に伝えようとしていることがあって、それは私にも見ることができた。
このひとは、私にこれを伝えようとしている、というものを感じた。

黙っていてごめんなさい。
あなたが何を言うのかもっと知りたかったんです。

そのとき、そのひとはそれを伝えようとしてくれました。
その瞬間、そのひとは私にそれを伝えようとしてくれた。

だからわかる。
だからありがたいと感じる。

その瞬間、そのひとの本当の気持ちがそこにあるから、
私はそれを感じることができる。
受け入れるか、受け入れないか、じゃなくて
そのひとのそのこころに触れる。

そのひとは、カーリングの何が好きなのか、と私に問う。
そのひとは、求める答えがあるのか、と私に問う。

私に、そのひとのこころを伝えようとする。

だから、私は感じる。



私がカーリングというものに触れること。
それは、そのひとを見ることに等しいです。

例えば、
小笠原さんの弱いところが見える。
勝っていてもなお逃げる、そのときの不安で弱い気持ちの彼女を見る。

小笠原さんはスキップに向いたタイプでないのかもしれない、と私が感じる。

私はどうするか。

書くか、書かないか。

小笠原さんの名を出さずにスキップの一般論として書くか。
柔らかく遠回しに優しく表現するか。
ストレートに感じたままを強く書くか。


私がこうして文章を書くこと。
それは、私の中を誰かに見せることに等しいです。

例えば、
いまこうしてこの文章を書く。
もしも誰かになにかを伝えたいならば、そのひとに直接伝えればいいだけなのに、わざわざインターネットに掲載する方法で出していく。

どこまで書くか。
どうやって書くか。名前を出すのか。どの言葉を使うか。

読んだ本人は、どう感じるのだろう。
どう書けばそのひとに私の感じたことをそのままに伝えられるだろう。

それを見た他のひとはどう捉えるだろう。
私の感じたことを、曲がらずに理解してくれるだろうか。



いま、この私の文章を、
なんらかの興味を持って見てくれるひとがいる。

ネガティブな冷やかしでも、ポジティブな期待でも、
それでも、

ツイッターなどとは違う、そのひとが自分から見ようとしなければ見ることがない、ブログという形式のものを見にきてくれるひとがいる。


そのひとには、伝えたい。

私が何を感じたか。

私が何を考えたか。

誰かの言葉ではない、私の言葉を伝えたい。


だから、私は本当のことを言いたいのです。


私はあのとき、自分のために、カーリングに嘘をついたのです。


だからもう、本当のことしか言いたくないのです。

それでなければ、私がインターネットでカーリングについて何かを言う資格も、自分にとっての意味もないのです。

私はそれを伝えたい。
私がカーリングを面白いと感じること。
私がカーリングを素晴らしいと感じること。

誰かにカーリングの面白さが伝わりますように。
誰かにカーリングの素晴らしさが伝わりますように。


だから私は本当のことを言いたい。

それは、私がカーリングに関わる限り、絶対に曲げられないのです。

私は、本当のことを伝えたいのです。


それが、私がこのブログをふたたび始めた理由です。