写真2枚目、3枚目は

樋口季一郞氏


欧州国際連絡列車

「生命のビザ」

杉浦千畝


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第二次世界大戦中には、リトアニア領事代理であった杉原千畝が発給した「命のビザ」を持ったユダヤ人難民が続々と敦賀に上陸した。人々は銭湯を無料開放したり、りんごなどの果物を無償で提供したりと、難民を温かく迎えた、という話しは既にご存知の方は多いのではないかと思います。



1枚の切符で渡航できる直通列車「欧亜国際連絡列車」が開業した。ヨーロッパまでの最短であったこのルートで、歌人与謝野晶子はパリへと旅立ち、来日していた探検家アムンゼンは日本を発った。




日本が初参加したストックホルムオリンピックで金栗四三ら日本選手団が利用したのも、本ルート「欧州国際連絡列車」である。第二次世界大戦中には、リトアニア領事代理であった杉原千畝が発給した「命のビザ」を持ったユダヤ人難民が続々と敦賀に上陸した。




人々は銭湯を無料開放したり、りんごなどの果物を無償で提供したりと、難民を温かく迎えた。“The Town of Tsuruga looked like heaven. We will never forget Tsuruga.”-天国のように見えた敦賀の町。この地の人々の温かさは決して忘れない- 彼らの感謝の言葉は現在も敦賀に残されている。




この「命」と「平和」のストーリーを後世に伝えるため、敦賀港を望む場所に「人道の港 敦賀ムゼウム」という資料館が設立された。現在も、救済難民やその子孫らが、「命のビザ」の物語をたどってこの地を来訪するが、敦賀の人々は当時と同じように彼らを温かく迎え入れている。




敦賀港にはこれまでに年に1、2回の大型外国クルーズ船が寄港しており、今後は寄港の回数を増やす予定をしている。これは「外国人を受け入れ、もてなす」という精神が今も変わらず根付いている。




欧亜国際連絡列車の偉業については下記ブログにて紹介しました、初めての方は一瞥して頂ければと。



杉原千畝はカウナスの領事館に赴任中、主に隣国ポーランドから逃れてきた約6,000人のユダヤ人難民に日本への通過ビザを発行しました。この10日間のビザは日本の外務省の承認なしに与えられ、難民はホロコースト行きを免れ、生き延びることができました



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独断でユダヤ人を救ったもう一人の日本人がいます。樋口季一郎陸軍中将(1888-1970)はハルビン特務機関長だった昭和13年(1938年)、ナチスの迫害を逃れてソ連と満州国境のオトボールで立ち往生していたユダヤ難民を受け入れ、上海へ向けた脱出ルートを開いた。いわゆる「オトボール事件」だ。救ったユダヤ人は2万人ともされている。


コメント欄にて説明を追加しましたので、そちらもご覧ください。




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更にもう一人の立役者

ズヴァルテンディク

ヤン・ズヴァルテンディク Photo: Wikimedia Commons


杉原の名声の陰に隠れているものの、ズヴァルテンディクこそ、杉原のユダヤ人救出を最初に手がけ、推し進めた重要人物なのだ。



それだけではない。ズヴァルテンディクは杉原と違い、妻と3人の幼い子供、そして自らの命を賭けた。



ポスターに書かれた謎めいた説明によると、ズヴァルテンディクは「ユダヤ難民に多くの準ビザを発給し」、その準ビザと杉原のビザのおかげで難民が脱出できたという。




勉強になったというより混乱した私は、エフライム・ズロフに電話をかけた。「サイモン・ウィーゼンタール・センター」のホロコースト史研究者で、杉原についての博士論文を書いた人物だ。ズロフはブルックリン訛りで話してくれた。




「よく聞いてくれ。もしヤン・ズヴァルテンディクがいなきゃ、ユダヤ難民はひとりも日本に行けなかったろう。すべてを始めたのはズヴァルテンディクなんだ。ズヴァルテンディクなしには、杉原もビザを発給できなかった。そこをもっとちゃんと評価して欲しい。




ヤン・ズヴァルテンディクが1940年に自筆署名した査証
Photo: Wikimedia Commons






歴史には正当な評価を受けていない人物や、逆に不当な評価で苦しむ人々も多いですね。

いつか時が来れば、いや、たとえ時が来なくても。

普段通りに✌️





詳しくはこちらより




最後までお付き合いありがとうございます。



今日もピアノで癒されてください。