新免武蔵の木刀 | 肥後の異風者 (いひゅうもん)の一言

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等の一言です。出身 肥後黙壺子




新免武蔵守藤原玄信

しんめんむさしのかみふじわらのはるのぶ  又は げんしん

これは 通称 宮本武蔵    の著書

五輪書 ごりんのしょ     の 冒頭

書かれた名です

新免 とは 武蔵の父無二  又は 無二斎が仕えて居た 新免宗貫氏から懐いた姓名又は新免氏の一族とも、

姓名の事は長くなりますので、

ここまでとし、

肥後、熊本の金峰山の麓に

岩戸山が有ります、

そこに 雲巌禅寺が有り、その奥に霊巌洞と呼ばれる洞窟があります。かなり大きな洞窟で

石体四面の仏様が納められてます。ここを岩戸観音と呼びます、晩年  武蔵はここを気にいり、座禅等の修行の地とした      

ようです、

巌流島の決闘の後 肥後の地に

武蔵は来たのではないか?とも

云われます、そこで岩戸観音にも そして球磨の地まで足を伸ばし、その頃も高名だった 丸目蔵人に会ったのではないか?

そして  一手 手合わせを願ったのではないか、  と思わずにはいられません。小山勝清さんの

それからの武蔵  の話しが現実にあってもおかしくない、と思えるのですが、武蔵(1584~1645)

丸目蔵人(1540~1629)巌流島の決闘1612年だから 武蔵28歳、丸目72歳、充分に闘えます。

小山さんのそれからの武蔵では老練な丸目蔵人左徹斎が描かれ

        くらんどのすけてっさい

てまして、武蔵が、最後には遠く及ばずと呟きます。

今日の本題を反れてしまいました。  岩戸観音の雲巌寺には

巌流島で佐々木小次郎と闘ったおりの木刀が所蔵されてました、子供の頃から何度も拝見しました、櫂を削って作った木刀です、武蔵の映画、ドラマでは

必ず出てくる物ですが、ほとんどが形が違います、櫂を意識して作られたからでしょうか、

ほとんどまっすぐで先がやや大きくなってます、赤樫です、

長さも長いです、4尺2寸127cmあります、小次郎の燕返しの長刀を意識して作られた物

でしょう。今は武蔵の物を数多く所蔵されてる、熊本市の島田美術館に保管展示されてます、木刀も本物と同寸法の物を販売されてます、1キロ400有りかなり重いです。

但し赤樫ではありませんでした。この木刀は子供の頃は 

武蔵所用の木刀としか知りませんでした! いつの間にか巌流島

で使った木刀と言われるようになってました。

そう言えば 文献にあるような

見事な木刀であります。

なお 熊本、八代市の松井家にも

これと同じ巌流島で使用した木刀があります、形はかなり似てますけど、少し違います、

松井の殿様から巌流島で使用した木刀はと問われ  武蔵が作り 

献上した物と云われます。

なお松井家とは巌流島の前から交流があったと云われます。

どちらも本物ではありましょう。ただ巌流島使用の物とは

決闘後すぐに こちらに来たのであれば使用したその物の可能性は大きい。

なお 雲巌寺には武蔵の木刀と一緒に自作と云われる見事な、不動明王像が有りましたが 今は個人蔵となっております。

これも武蔵意外 誰が作る?作れる と思える物です。

上記の写真は昭和初期に写された雲巌寺の写真ですが、

私達が行った頃もこうゆう感じで民家のようでした。

ここに 木刀と不動明王像が大分昔から置いてあったそうです。

いや 置いて有りました。