11月24日、国連合同エイズ計画(UNAIDS)の事務局次長ルイス・ロウレス氏とお会いしました。

 
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ロウレス氏は、日本が新規のHIVの感染数や、エイズに関連した死亡数を低いレベルに抑えてきたことに関心を持たれており、議員会館の事務所まで訪ねて来られました。
 
 
翌25日は、第31回 日本エイズ学会学術集会・総会に参加しました。(ロウレス氏も、この学会に参加されています。)
 
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「スティグマの払拭は誰が担うのか」というシンポジウムの中で、「薬害エイズ事件を振り返って」と題し、みなさんの前でお話をさせていただきました。
 
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日本でHIVが見つかり始めたころ、感染者の多くは、輸入された血液製剤を使ったことにより感染してしまった血友病の患者の人たちでした。治療に使っていた血液製剤の中にHIVが入っていたために、感染してしまったのです。私自身も、そのようにして感染した一人でした。
 
 
輸入している血液製剤の中に、HIVが入っているため、当然危険であるのですが、製薬企業も、厚生省(当時)も、危険であることを知りながら、輸入を止めることをしなかったのです。そのため、HIVに感染してエイズを発症し、亡くなっていく人が後を絶ちませんでした。薬害エイズは、そのような背景から起こった事件でした。
 
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新聞をはじめとする報道では、エイズは「未知の病気」、「謎のウイルス」と伝えられました。1987年に、神戸で初のエイズ患者が出たときは、過激に報道されたこともあり、〝エイズパニック〟と呼ばれるほどに、日本中がパニックになりました。誰もが知らない未知のものであったこと、死に至るものと信じられたことが、人々の恐怖をあおることになってしまいました。
 
 
同時に、「感染者に触れただけでうつる」といった、誤った認識も広がっていってしまいました。HIVに感染したことを、まわりの人に知られることで、偏見をもたれ、差別されることにつながったのです。
 
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私自身も、小学生の頃、HIVのことでいじめを受けたことがありました。中学生のときには、自分自身が感染していることを、まわりに隠すようになっていました。当時は、エイズに対する治療法が確立されておらず、薬も未発達で、死に至る確率が非常に高かったのです。同じように感染した友達が、次々と亡くなっていくのを目の当たりにしていると、「自分は長く生きられないのだ」とヤケになっていきました。
 
 
ただ、高校生になる頃から、少しずつ、自分でエイズのことを勉強し、知っていくようになりました。自分自身の病気のことを知りたいと強く思ったからです。
 
 
そんな中、私に対して、偏見なく接してくれる人がいました。同じ高校の友達は、「昨日のお前と今日のお前は変わらない。今までと同じように付き合う。同情しないからな」と、言ってくれました。「HIVに感染してるからといって、あなたへの接し方を変えることなんてしないよ」と言ってくれる人もいました。
 
 
また、薬害エイズの裁判の原告団に加わり、まわりの人たちが優しく受け入れ、フラットに接してくれたので、「大丈夫なのだな」と安心感を感じていき、徐々に自分の心を開いていくことができました。
 
 
1994年に横浜で開かれたエイズの国際会議に参加したことも、大きなきっかけでした。シンポジウムで証言をするとき、日本の感染者の人たちは、カーテンで遮られた状態で話していたのに対し、海外から来た人たちは、仕切りもなく、堂々と話していました。私よりも年下の、10歳の男の子が声をあげている姿には、良い意味でショックを受けました。同じ感染者でも、名前も顔も出して生活している人がいるのを知り、自分も堂々と生きたいと思いました。
 
 
そのような心の変化もあり、国と製薬企業を相手にした裁判には、実名を公表して臨みました。多くの人に、薬害エイズという問題そのものを知ってもらいたいという思いもありました。
 
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19歳という年齢だったこともあり、社会から、大きな関心が集まりました。高校生や大学生の人たちも、応援してくれました。薬害エイズの深刻さが、社会に浸透していき、心を動かされた人が、自分にできることを考えて、次々に集まってくれたのです。このことは、裁判の行方に、大きな影響を与えました。
 
 
薬害エイズの裁判は、最終的に、和解という結果になりましたが、本当の意味での終わりはまだないと思います。
 
 
薬害エイズの裁判のときは、匿名で裁判に参加した人が多くいました。原告が、名前ではなく、番号で呼ばれる裁判は、前例のないことでした。当時の風潮の中で、差別や偏見を怖れて、感染者であることを最後まで隠して、ひっそりと亡くなった人がたくさんいました。時が経った今も、感染していることを知り、自ら命を絶つことを選んでしまう人もいます。
 
 
「スティグマ」とは、障害や貧困など、社会の中での不利益や差別などのことをいいます。偏見や差別をなくすために大事なことは、一人でも多くの人に知ってもらうことです。その上で、「ひとりひとり」が考えて、動いていくことだと思います。一般の人にも、自分ごととして認識してもらうことです。私は、薬害エイズの裁判の活動を通して、そのことを、身をもって実感してきました。
 
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裁判は終わりましたが、国会議員という立場での活動は続きます。薬害エイズにより奪われた一人一人の命を無かったことにしたくありません。これまでの経験を活かし、HIV、エイズに対しての差別がなくなるよう、これからも発信し続け、努力していきたいと思います。みなさんと一緒に頑張っていきたいです。
 
 
 
龍いのちを守る! 参議院議員 川田龍平龍