1月18日、ジャーナリストで政治評論家の
岩見隆夫さんの逝去を知りました。

岩見さんには、みんなの党に入党した当時、
非常に心のこもったコラムを書いて頂いたことがあります。

2009年、みんなの党に入党した時のことです。



(以下転載)

「川田龍平が投じた一石」2009.12.6

衆院の議席数が多い順に並べると、民主、自民、公明、共産、社民、みんな、国民新、新党日本の8党、この年の瀬、例外なく揺れている。変革期の政党はどうあるべきか、と。
 
そこに、薬害エイズ被害者で無所属の川田龍平参院議員(東京選挙区・33歳)が一石を投じた。

川田は1日の記者会見で、入党を求められた民主党を、「議員立法の禁止や議員連盟の加入制限など一党独裁的な政治が行われている。自由な発言ができない」などと手厳しく批判、誘いを断ってみんなの党(渡辺喜美代表)に入党したと発表したのだ。

与野党勢力が拮抗(きっこう)している参院では、1議席が大事にされる。07年夏の初当選の直後から民主党に勧誘され、最近は石井一選対委員長が「13年の参院選に、東京から3人目の民主党候補(07年参院選では民主2議席)で立たないか」と誘ったという。

一方、みんなの党とは、江田憲司幹事長が無所属のころから付き合いが長く、結党前に、 「新党を作るが来ないか」と請われていた。社民党からも同一会派で、と誘われ、結局、3党から声がかかったのだ。

川田は支援者の会を何度も開き、意見を求めたが、3党の評価はマチマチだった。みんなの党について、年配の支持者から、「石原慎太郎といっしょにやるのか」と言われ、驚いたこともある。

渡辺代表の父、美智雄と石原らが昔、行動タカ派の青嵐会を作ったイメージがまだ残っていたらしい。川田は、
 
「みんなの党はしがらみがなく、党議拘束もない。一途(いちず)に<脱官僚>を目指していることにいちばん共感を覚えた。
構造的な薬害も官・業の癒着からだから」と入党を決断した理由を語った。それだけではない。
 
「2大政党制は日本の社会になじまないと思いますね。少数意見の尊重が何よりも大切。だから民主党にひかれたことは一度もない」

大政党の粗雑さが気になる。臨時国会では、肝炎対策基本法、原爆症救済法などが処理されたが、患者への配慮に欠け、すべて拙速、国対政治と人気取り先行、と川田には映った。

民主党を一党独裁と決めつけたのは、小沢一郎幹事長批判か。

「小沢さんのことはよく知らない。薬害エイズを訴えた時、涙を流して聞いてくれた。そんな面もある。 とにかく、なかの雰囲気が暗い。民主党の友人は『抑えられて何もできないよ』とぼやいている。こんなこと、長く続かない」

<平成維新>を掲げて船出した新政権だが、3カ月たらずで早くも迷走気味だ。少数の代弁者である川田が言う。

「政治が面白い。いままでの常識が崩れてきた。民主党のなかだって毎日コロコロ変わってますよ。国民と近くなった。インターネットなんかで国民と議員の垣根も取っ払われてきたし……」
 
政権交代後の潮流を、肯定的にとらえている。

夫人はノンフィクションライターの堤未果、
「ルポ 貧困大国アメリカ」(岩波新書・08年刊)で昨年、日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した。

「毎日、妻と情報交換している。こんどはかなり大きな決断だったので、もちろん相談したが、『いいじゃないの』と」

みんなの党での新ポストは、浅尾慶一郎政調会長のもとで会長代理。

<もっと動けば変わる>

が川田のキャッチコピー、一人一人の人間を大切にする医療と教育に立ち向かうという。(敬称略)
 

(出典:2009.12.5 毎日新聞掲載記事

当時無所属から政党に入った事で、批判や賛同、叱咤激励などさまざまな声が届けられる中、
私の発言や入党の経緯、心情を深く汲み取って下さったこの内容に、
胸がいっぱいになったのを覚えています。

敬愛する岩見氏の訃報を聞き、残念な気持ちでいっぱいです。
この時頂いたメッセージを胸に抱き、心よりご冥福をお祈り申し上げます。

 
参議院議員 川田龍平