河内マサヤンのブログ

河内マサヤンのブログ

私が作成した創作花札を掲載しています。創作花札とは花札の形を借りた「書」「イラスト」「言葉遊び」が三位一体となった作品です。

 

「芭蕉布」という歌は一九六五年に発表されたが、沖縄女性の気高さと美しさが感じられ、私の最も好きな歌の一つだ。この歌を知ったのは大分後のことで、一九八〇年頃私の歌シリーズの一つとして、グループ展に発表した。画仙紙(35×67.5)に芭蕉の葉っぱを大きく描いて着色し、その中に「芭蕉布」の歌詞を書いた。そのころ「誰もいない海」や「津軽海峡冬景色」「菩提樹」などを書いたが、二、三十点出来たら個展を開いて、そこで出品した歌を歌ってもらおうと計画を立てたが、実現しなかった。

芭蕉布は沖縄の特産品で、糸芭蕉から取った繊維で織られた織物だ。沖縄住民の普段着から晴着まで広く愛されてきたが、大変な手間暇がかかり、織り手が少なくなって、入手が非常に困難で、今では数十万円から百万円もするそうだ。

ある時、私はこの芭蕉布の見本帖を古本屋で見付けたが値段を見てビックリ。五万円もしたのだ。買おうか買おまいか思案したが、結局あきらめた。芭蕉布の数センチ角の端切れが三十枚貼られていたが、今思うと買っておけばよかったと後悔している。私はつくづく目先の利かない人間なのだ。

 

 

アッサラーム・アライクム!

今回は『ヨルダン』です。アラビア半島の北西部に位置し、イスラエル、パレスチナ、シリア、イラク、サウジアラビアと国境を接しています。国土の約8割が砂漠や荒地という乾燥した気候ですが、緑豊かな渓谷も存在します。中東の要所にありながら、非常に治安が安定した親日国として知られています。アラビア半島ですが、原油などの天然資源には恵まれておらず、深刻な「水不足」に直面している国でもあります。そのため、主な産業はリン鉱石などの鉱業、製造業、そして歴史的な遺産を活かした観光業が経済の大きな柱となっています。また、国外(湾岸諸国など)で働くヨルダン人からの海外送金や、国際的な資金援助も国を支える重要な収入源です。

ヨルダンと言えば、イスラエルとの国境にまたがる「死海(しかい)」が有名ですね。面積は約600平方キロメートルで、日本の琵琶湖(約669平方キロメートル)よりほんの少し小さいくらいの大きさですが、最大の水深は約300mと非常に深く、塩湖としては世界一の深さを誇ります 。そして死海の水面は海抜マイナス約430mに位置しており、「地球上で最も低い陸地」にありますす。故に流れ出る川が無く、乾燥地帯と言うことも重なり、海水の約10倍、約30〜34%という塩分濃度になりました。浮力が非常に高く魔法のようにぷかぷかと水面に浮かび上がる「絶対に沈めない」湖なのです。

さて、今回はめ込んだのは世界的に有名な『ペトラ遺跡』です。名物の砂絵は、ガラス容器に色鮮やかな砂を少しずつ落としながら美しい模様を描いたもの。ヨルダンはパレスチナやシリアからの難民を多く受け入れてきた歴史があり、今も多くの子どもたちが厳しい生活環境や教育環境の中で暮らしています。

私は小さい頃から歌が大好きで、五、六歳の時には灰田勝彦や岡晴夫などを歌っていた。特に好きだったのは三橋美智也だった。ところが中学の音楽のY先生が沢山の歌を教えてくださり、クラシックに目覚めた。大学生の頃にはクラシックの他にタンゴやシャンソンも聴くようになり、「朝(あした)にミッチー(三橋美智也)を聴いて夕べにリストも可なり」という具合に幅広く何でも聴くようになった。
 四十歳の時に開いた「楽に寄す展」ではクラシックレコードのジャケットのデザインを始めバイオリンのオブジェやグランドピアノの蓋に字を彫って彩色したものなどを出品した。そしてその付属に小コンサートを開き、シューベルトの歌曲やショパンの曲などを演奏してもらった。最後に私自身がモーニングを着て指揮者よろしく「カラ指揮」と称して、チャイコフスキーのピアノ協奏曲のレコードに合わせて指揮をした。しかし、いつの間にやら阿波踊りになってしまい、阿波踊りの踊子さん達も出てきて、会場の人を呆気に取らせてしまった。
 私は何故これほど音楽が好きなのか。それは音楽ほど楽で楽しいものはないからだ。何しろ寝転んで目をつぶって、力をも入れずに楽に楽しめるからだ。まさに音楽は道楽者の最たる道楽だ。寅さんじゃないけど、「音楽聴くには力はいらぬ、食べて寝ながら聴けばいいってネ」


 

 

篆刻というのは判子(はんこ)彫りのことだ。昔から文人達が愛好し今日では書道の一分野になっている。私は専門の篆刻家よりも文人の篆刻にひかれ、特にフランス文学者の鈴木信太郎がフランスの泥棒詩人ヴィヨンの訳詩集の奥付にヴィヨンの詩の一節を自ら刻した印を押したのを見て感銘をうけた。
 服部畔石(こうせき)は戦前の篆刻家で俳人でもあった。その著「篆刻字林」は有名だ。俳人としては「高潮」を主催し、「睡蓮に雨四五粒の水輪かな」は代表句。
 外国人が、日本人は誰でも詩を作ると感心していたが、日本人なら誰も指を折って俳句を作ったことはあるだろう。そして、芭蕉、蕪村、一茶の句は一つくらい誰でも知っている。私は芭蕉が好きで、五十歳の時、松尾芭蕉没後三百年記念として、京都で「芭蕉書展」を開き、芭蕉の作品ばかり百点を書いて個展を開いた。
 現代俳人の永田耕衣氏は絵や書も堪能で、「夢の世に葱(ねぎ)を作りて寂しさよ」が有名だ。神戸の大震災で被災され、寝屋川市の私の近くに避難して来られたが、会うことはかなわなかった。
 弟が中国旅行の土産だといって、美しい中国の書の切手をくれた。日本にはその当時、書の切手というものはなかったが、しばらくして芭蕉の奥の細道シリーズ(全40種)の美しい切手が発行され、次いで干支(えと)文字シリーズは十年以上も続いた。切手は男の子なら一度は集めたと思うが、私は船の切手を、五、六百種類集めて額に入れて楽しんだ。
 篆刻といい、俳句といい、切手といい、小世界に万物を包蔵し、喜びや悲しみをこめ、慰めを与えてくれる。なべて小さきものは愛おしきかな。

オラ!

北アメリカ南部のメキシコ(マサヤンはずっとメキシコは中米と思ったのですが)。太陽と情熱の国メキシコ。ユネスコ無形文化遺産にも登録された本場のタコスや、マヤ文明のチチェンイッツァといった巨大な遺跡、そして陽気な音楽が有名です。
スポーツではボクシングが盛んで、多くの伝説的なチャンピオンを輩出している「ボクシング大国」でもあります。街を歩けばどこからかマリアッチの調べが聞こえてくる……そんなカラフルでエネルギッシュな魅力が詰まった国です。

そんな明るいイメージの強いメキシコですが、実は古くから語り継がれている、少し切なくて怖い伝説があるのをご存知ですか?
それが、「ラ・ジョローナ(泣き女)」のお話です。
伝説によると、白いドレスを纏った長い黒髪の女性が、夜な夜な水辺に現れては「ああ、私の子供たちはどこ?」と泣き叫びながら彷徨っているといいます。
かつて愛する人に裏切られた悲しみから、自らの手で我が子を川に流してしまった女性。その罪の意識から、死後も霊となって子供を捜し続けている……という、メキシコでは子供のしつけに使われるほど有名な怪談です。

今回のはめ込みは「ラ・ジョローナ」をはめ込みました。マサヤンは子供を見つけて天に昇るラ・ジョローナを描きました。

 

 

一九八八年一月、あと三ヶ月に迫った廃止を前に、私ははじめて青函連絡船に乗りに行った。青森行きの寝台特急に乗り、青森から青函連絡船で函館に渡った。函館で一泊して次の日にまた連絡船に乗ったが、行きも帰りも摩周丸という優美な名前を持つ船だった。青森から車中一泊して大阪駅に着いたのは十時半頃だったが、そのまま高校の授業に間に合わせた。

一月といえば真冬。おまけに北国で、海の上ともなると寒いのなんの。けれども私は何度もデッキに出ては、小雪交じりの烈風で凍てつくような寒さに耐えながら、何回も、何回も「津軽海峡冬景色」を歌った。行く前に生徒たちに連絡船のデッキで「津軽海峡」を歌ってくると公言したからだ。「大阪発の夜行列車降りた時から青森駅は雪のなか・・・・」歌っている内に涙が流れてきた。残念ながら誰も聞いていなかったが、鴎が聴いていたかもしれない。

 

※これは昭和六十三年三月JR北海道函館支社発行の乗船記念感想文集「栄光の航跡青函連絡船」への投稿の一部。

 

夏休みも終わって二学期になり、休んでいたお習字の生徒達も顔を見せはじめた。そんな時、私はいつも子供に夏休みは何をしたか、どこへ行ったかと聞いた。


 今は、親が忙しくてどこへも連れていってもらえない子や、家庭の事情でどこへもゆけない子もいて、そういうことを聞くのは批判されるだろうが、昔は平気で聞いていたものだ。

 一年生のタッちゃんにも「どこへ行った?」と聞いた。タッちゃんはちょっと奥手の子で、黙ってジッとしていた。もう一度「どこへ行ったん?」と聞くと、しばらくしてから「うみへいった」と答えた。さらに「どこの海へいったん?」と聞くと黙ってしまった。

 しまった、余計なことを聞いたと思ったが、助け船が出た。近くにいた六年生のチーちゃんが「おやじの海やな」と言った。タッちゃんはコックリうなずいた。そうか、「おやじの海」へ行ったか。私はチーちゃんの言葉に救われた。

 それから一、二年後、書のグループ展に「おやじの海」を出品した。画仙紙(135×70センチ)に題を大きく書き、歌詞を三番まで書いた。私は「おやじの海」はあまり知らないが、忘れられない歌だ。

 

 

ワウハラポ!

今回はアフリカ南西部に位置する国『ナミビア』
国名の由来は、『ナミブ砂漠』からきており、現地語で「広大な場所」や「隠れ家」を意味しますが、個の砂漠は約8000万年前にできたと言われる世界最古の砂漠なのです。
見どころは「デッドフレイ(死の沼)」。真っ白な粘土質の地面に、立ち枯れた木々が黒い影を落とし、背後には燃えるようなオレンジ色の砂丘。まるでシュルレアリスムの絵画の中に迷い込んだような、不思議な感覚になりそうです。
また、ナミビア北部に暮らすヒンバ族は、赤い石の粉とバターを混ぜた「オカ」を全身に塗るのが彼らのスタイルです。その立ち姿は「世界一美しい民族」と称されるほどです。

 

さて、今回のはめ込み地図は北東の矢印みたいな地域(カプリビ回廊)を手にして、人差し指を立てて更なる前進を表しています。豊富なダイヤモンドとウランに加えて、砂漠やサファリ等の魅力的な観光資源も注目を集めており更なる前進が期待されています。

 

 

 

私の母はオシャレで七十歳くらいまでよく着物を着ていた。近所の医者に行く時もちゃんと着物だった。外出する時は特におめかしした。食べることには全く金をかけなかったが、オシャレは別だった。特別仲が良かったわけではないが、二人でよく出した。ある外出先で、人から「奥さんおきれいですね」と言われた時、父は平然と「二号です」と答えた。母はそれが余程気に入ったのかよく吹聴したものだ。けだし父の一世一代の名言だろう。

父は明治生まれで厳格だったが、おもしろい一面を持っていた。軍隊に入った頃から立派なヒゲを蓄えていたので、よく上官に間違えられたそうだ。そんな時どうしたかといえば、上官のふりをして軽く敬礼をしたという。

シャレが好きで「カンラン汝を玉にす」(艱難〈かんなん〉汝を玉にす。カンランとはキャベツのこと)とか、すき焼きを食べた時には「火を見て煮ざるは牛無きなり」(義を見てせざるは勇無きなり)と言ったものだ。

母は歌が好きで、よく「並木の雨」や「純情二重奏」などを歌っていたが、父が歌うのを一度も聞いたことはない。

 


いつもブログをご覧いただき、ありがとうございます。

実は一昨年の夏、軽い狭心症で入院いたしました。私の両親がともに脳梗塞を患っていたため、「自分もいつか……」と覚悟していたのですが、検査の結果、原因は脳ではなく心臓だったのです。

これには「えらいこっちゃ」と驚きました。人生もそう長くはないと感じ、当初は八十歳まで生きられたら御の字だと思っていましたが、人間とは欲深いもので、「せめてあと四、五年は」という思いが湧いてきたのです。

そこで、以前から考えていた「これまでの歩みを振り返り、思い出を残したい」という願いを形にすることにいたしました。過去に書き溜めていた三十〜四十篇ほどの内容を書き改め、さらに新しいものを書き加えたところ、全部で六十一篇の作品になりました。

こうして、2026年1月に一冊のエッセイ集として製本する運びとなりました。

内容はどれも原稿用紙一枚半ほどの短いものばかりです。古いお話が多く、お若い方には少し馴染みの薄い内容かもしれませんが、どこか一部でも共感していただける部分があれば、これほど嬉しいことはありません。古い順に並べたつもりですが、中には時期が前後している箇所もあるかと思いますが、ご容赦ください。

ちなみに、エッセイ集の題名はあのデカルトの有名な言葉を拝借しました。深い意味があるわけではなく、「われ」を少しシャレに変えてみただけなのですが(笑)。

当ブログでも、その一部を皆さまにご紹介していきたいと考えております。ブログの本文は敬体ですが、エッセイ自体は執筆時のまま(常体)で掲載いたします。少し雰囲気が変わりますが、あわせてお楽しみいただければ幸いです。