19世紀末、ちょうどイギリス人デービス小佐と同時期に雲南を踏査したフランスの貴族、オルレアン公アンリは、『トンキンからインド』(d'Orléans,H.P.M.Prince1898 Du Tonkin aux Indes:Orientales janvier 1985-janvier 1986.Calman Levy.Paris)で、ベトナムから紅河沿いに雲南に入り、雲南南部の重鎮、思茅から緬寧(いまの臨滄市の臨翔鎮)・順寧、怒江を北上する踏査行を行っています。思茅・緬寧・順寧の古市街はみな丘の上にありますが、このことについてもオルレアン公は触れています。辺境地区に進出した漢族や朝廷が派遣した官僚たちは、瘴癘(マラリア)を恐れて平地に居住区を造るのは避けたに違いありません。逆に言えば、タイ族が他の民族-とくにチベット系のハニ族・ラフ族・ジノー族と違って、山地に住むのでなく、平地に住むのは、マラリアについて耐性がある人たちであったからという理由が大きいと思います。
オルレアン公はここでタイ族の市を見物しています。「ある者は大きな丸い麦わら帽子をかぶり、天辺は小さくとがっていて、ビルマ様式である。6日の路を歩いてここまで来たのだ。婦人たちは黒い短めのスカートをはいていて、幅広の黒ずきんを巻いている。額の上には二カ所尖った形になっている。これは擺夷(タイ族)の婦人である。擺夷の男たち黄色い上着を着ていて、同じ色のずきんを巻いている。さらに小さな丸い縁なし帽をかぶっている。周囲の住民はほとんど擺夷である」(「思茅から大理」)。
臨翔鎮でのお昼ご飯は、比較的清潔な清真(イスラーム)食堂で回族料理を注文し、遅いお昼ご飯を取ります。メニューは牛肉炒めや鉄板牛肉です。雲南の回族は羊料理はあまりありません。鳳翔鎮を出発します。
雲南の回族はこのように牛肉料理がメインですが、オルレアン公は、当時19世紀末の緬寧では、官府は牛を殺して食べることを禁止していたそうです。それというのも、牛は農耕に必要な生産力を担っていたからです。
まずは一路南下、30㎞先に空港があり、さらに普本鎮・博尚鎮まで下ります。だんだんと海抜はあがり、1435mの鳳翔鎮から、博尚鎮では1735mでした。このあたりはさほど山深くはなく、1月にはもう菜の花畑が黄色に染まり、すっかり春色でにぎわっていました。意外に広い平地であるという印象です。土煉瓦の民家が村ごとに集まり、のどかな農村風情を楽しみました。永和村や、斗閣村などの漢族の村では、清代の民居が残る古村です。
これまで大理白族自治州の祥雲県からつづいて走ってきた国道214号線は圏内鎮を過ぎて双江県に行くのですが、さらに南下し、普洱市内の西盟ワ族自治県や瀾滄ラフ族自治県、孟連タイ族ラフ族ワ族自治県を通り、西双版納タイ族自治州の勐海県を抜けて、景洪市までつづきます。しかしそちらには行かず、科挙の合格を祈願する魁星閣があった斗閣村から瀾滄江に向けて、国道323号線に入ります。目的地は景色谷タイ族イ族自治県の県政府所在地である威遠鎮です。
斗閣村はかつての石畳の街道が村内を通り、左右に土煉瓦積みの木楼建築がつづく村です。ここからほとんど石畳も埋没してしまった砂埃の路を行きます。この一帯は梅子箐といい、その名の通り桜や梅の花咲く山中の渓谷を走ります。背後の山脈からは、滝が一直線に崖下に落ちて飛沫をあげています。
梅子箐
しぱらくのどかな田園を行くと、ふたたび山道となります。峠道は山深く、土が剥き出しの国道は、とても国道とは思えず、路に深く刻まれた轍の跡も鮮やかでる。すると突然視界が開け、遙か東北から、左右切り立った山並を匍うように流れる瀾滄江を見下ろします。冬場の瀾滄江は、上流のダムの影響もあるのか、水はすくなく、河水に洗われた岩石の合間を縫うように流れていました。
瀾滄江
官山村は大きなプラントがあり。海抜はちょうど1000mを指しています。その先に、瀾滄江を越える大アーチ橋があって、ちょうど海抜800mでした。ですから、ここから景洪市に流れる間に300m下がることになります。夕暮れの川面は鏡の面のように、空を映し出していました。ここから路は上りになり、黒い頭巾を巻いたタイ族の婦人の姿も目につきます。パパイヤが青く臭そうな実をいくつも重たげに幹にぶら下げています。バナナ畑も各所に見られるようになります。路は相変わらず砂埃の路で、周囲の樹林は車が巻き上げる埃で銅色に染まり、いよいよ暮れなじんできた山間の景色のなか、だんだんと赤みを帯びていき、やがて闇に消えてしまいました。路標もなく、とっぷり暮れた路を黙々と車は走ります。途中で旅店に集う人々に尋ねると、あと40㎞との答えです。日暮れて路遠しとはまさにこのこと。
橋の上から見た瀾滄江
どこまでも谷間の真っ暗闇の山道を走ります。ランプの火さえみえず、「そういえば、こんな山道は最近まで山賊が出たものだ」と思いだし、すこし不安になりました。対向車はバスばかり、それも二段ベッドの夜行バスです。景洪から瑞麗などという行き先表示のバスもあり、雲南の南端から西端まで走り抜けるのです。
やがて峠路に出、ちらほらと街の光がみえ、永平鎮付近を抜けます(国道には面していません)。海抜1000m。ここから路は舗装道路となり、時速40㎞は楽に出ます。あと20数㎞で目的地の景谷県の政府所在地の威遠鎮です。まずは山道を海抜1500mの干海水庫(ダム)まであがり、あとは螺旋状に坂をくだって一気に海抜800mの威遠鎮にたどり着きました。時に夜九時半でした。その日はとにかく手近なホテルに泊まり、四川人の作る担担麺でお腹を満たし、すぐに夢境に入りました。景谷県は夏も来たのですが、いつも夜に一泊するだけの街で、それだけで終わってしまいます。
さて、私は翌日景谷から普洱市内の寧洱県・翠雲区の政府所在地である思茅鎮を通り、夕方西双版納タイ族自治州の州政府所在地である景洪市に到着しました。
この一帯の茶山と茶葉輸送ルートの旅については、しばらくあいだを開けてから報告します。
明日からは雲南茶についての基礎知識を数回にわたってまとめます。

