[上平街]

長さ262m、幅5mの堂々たる石畳の上平街ですが、中華民国期の初年までは、石畳の道は整備されていなかったようです。左右の木造建築も、多くは民国期のもので、もともとは藁葺の簡素な屋根の造りであったようです。


私想と日々─中国文化研究者・川野明正の筆記帳

朝の上平街

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上平街の街路

明末の徐霞客がこの地に泊まったときはわずか100戸、19世紀末にデービス少佐が住民たちの好奇に満ちた視線のなかで一泊したときは150戸、この間、清代の道光・同治年間のイスラーム教徒を中心とした清朝との戦いでは一度荒廃したはずです。

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店舗建築

この街が飛躍的に繁栄するのは中華民国期からで、茶葉交易を中心に外来の商人たちが大量に移住して以降です。曽慶芳氏の『鳳慶魯史─山背後的茶馬駅站』(雲南美術出版社、2006年)の紹介によれば、50軒の商業用家屋が軒を連ね、胡利和・胡慶祥・永昌祥・福澤寿といった昆明や大理の下関街の商店の支店が営業し、茶葉・土布・絹織物などの交易でにぎわい、料理屋3軒、菓子屋5軒、衣料品店5軒、雑貨屋20余りが出店していたとのことです(60頁)。これらの大店舗や菓子製造、地元名産の染布業など、いずれも中華民国期から始まりました。

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店舗カウンター


上平街の街は、西側の楼梯街から入るのですが、下平街から上がってくると、手前に角店建築が残っており、空間処理の工夫が窺えます。ただ、その軒の瓦と梁は壊れていて、梁は板を貼って処置してあります。これは1970年代、鎮内にもトラックが入るようになって、四方街に入る自動車は、注意を怠るとこの狭い角道を曲がる際に軒にぶつけてしまうからです。たびたびぶつけられてこの有様になってしまいました。街の老人劉文洲氏(76)は、1970年代に鳳慶県の鳳山鎮にいた師匠の元で免許を取り、トラック輸送に長年従事していましたが、生涯に一度だけ軒にぶつけたことがあったそうです。その時に支払ったお金で当時のお金で50元であったそうで、たいへん口惜しかったそうです。

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朝食はいかが


上平街では、剃髪匠の理髪店が古びた椅子を残して黙々と営業しています。その横にはおばあさんが造る小料理屋があります。どの店舗がかつてどの店であったかは定かではないのですが、一軒「俊徳昌」の看板を掲げた薬店があります。じつはこの店はかつてこの土地で茶園を切り開いて鎮内の主産業にまで押し上げた四川出身の駱英才(1885-19521)が経営していた店舗があったところで、いまではその息子が薬店を経営しています。駱英才はこのほかにも茶館の経営、手広く商業を営んでおり、今ではこの街の名産となった醤油の生産や、タバコの殖産と加工なども彼の手で事業が興されています。

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小料理屋