巍山から順寧の間での無量山越え、青龍橋越えから順寧への道は、1895年のデービス少佐の踏査旅行ルートと重なります。そして、徐霞客の1639年の旅行ルートとも、ほとんど重なっています。
『山峡にて』(『在山峡中』)は『南行記』(1933)所収の短編小説です。ここで「私」は盗賊の一味と一緒になり、その盗人稼業の片棒を担いだりしています。竹内好の訳が、武田泰淳編『中国現代文学』(河出書房新社、1971年)に収録されています。
また、尾坂徳司『四川・雲南・ビルマ紀行─作家艾蕪と二〇年代アジア』(東方書店、1993年)にも作品が紹介されています。
尾坂徳司先生の遺著となりました。作品の舞台は尾坂先生は長江流域を想定されていますが、「橋の下を流れる不気味な水は、闇のなかで相変わらず跳ねまわり、ほえたてる。怒ったように岩にぶつかっていってびっくりするほど高い音を響かせる」逆巻く河の激流の様子や両岸の「人気のない峰がそびえている」という情景は雨季の増水した瀾滄江渓谷を思わせますし、なによりも釣り橋の様子、「鉄線を束ねた釣橋がかかっている。不気味なほど頑丈な、大蛇ののたくっているようなその釣橋も、いまは次第に夜の闇に包まれかけた」(以上118頁)という様子、また、釣り橋のたもとにある河神の小さな祠などは、瀾滄江に懸かる青龍橋ではないかと思います。
青龍橋(携程旅遊網・鳳慶青龍橋より転載http://destguides.ctrip.com/china/lincang/sight61088/
)
青龍橋は清代の順寧知府劉靖によって、乾隆二十六年(1761)に架けられ、嘉慶十九年(1814)、道光二十四年(1844)の2回にわたり再建されています。最近までかかっていましたが、いまでは瀾滄江上の小湾ダム建設のため、記念物として鳳慶県の県政府所在地鳳山鎮郊外の紅亀山の迎春河に、橋のあずまや、石碑、磨崖石刻とともに移築されています。
朱浄宇氏によれば、崖に穴を開けて穿たれた十六本(内二本は左右の手すりの役割)の丈夫な鉄索は石台で高く持ちあげられ。100m近い長さ、3m幅の橋を支え、ために河の中心が高く、両岸側は低い、まるで長虹のような造形であることは、この橋独特の設計です。両岸の崖上には橋廓をもちます。背後には橋楼を重ねており、橋廓は風雨を避けて通行人の休憩の便を提供し、守兵が駐在していました。
楼門は朝は開き暮れには閉じます。関所の役割も持っているのです。
建築技術者で有名な大理地方剣川の親方が苦難の末に河幅の比較的狭い場所をみつけ、鉄索の鍛造に5年の歳月を費やし、それでもこれまで9回ほどかけ直しが行われてきました(『問路魯史-探秘南茶馬古道・順寧道』雲南大学出版社、2006年、92-93頁)。曽慶芳氏によれば、二百年間に2度の火災と6度の大風のために壊れています。しかも日本軍の爆撃蒙受け、しかし爆弾は外れて被害を生ぜずにすんでいます(『魯史─山背後的茶馬駅站』雲南美術出版社、2006年、80頁)。
朱浄宇氏によれば、かつての馬幇をしていた老人の証言によると、重さの関係で、一度に二匹の馬しか通れないので、20匹の馬を通すのに半時間もかかったそうですが(デービスの頃には一度に一匹のみ通行可)、後に補強され、一度に通れるようになったそうです。鎖一つで鋤きが一つ作ることができたとか。馬幇の頭である馬鍋頭はここで橋守にの役人に通行許可の文書を見せなければならなかったといいます(『問路魯史-探秘南茶馬古道・順寧道』雲南大学出版社、2006年、95頁)。
